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最後とは?/ レイク

[ 970] 最後の晩餐 (レオナルド) - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%99%A9%E9%A4%90_(%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89)

絵はミラノにあるレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院の食堂の壁画として描かれたもので、420 x 910 cm の巨大なものである。レオナルドは1495年から制作に取りかかり、1498年に完成している。ほとんどの作品が未完とも言われるレオナルドの絵画の中で、数少ない完成した作品の一つであるが、最も損傷が激しい絵画としても知られている。また遅筆で有名なレオナルドが3年でこの絵を完成しているのは彼にしては異常に速いペースで作業を行ったと言える。世界遺産に登録されている。
絵画は当時食堂だった部屋の壁面に描かれており、床から2m程の高から上に描かれている。一点透視図法を用いて部屋の様子が立体的に描かれており、ある位置から見ると、絵画の天井の線と実際の壁と天井との境目がつながり、部屋が壁の奥方向へと広がって見えるよう描かれている。絵の下端に床の縁のようなものが描かれており、絵の部屋の形状が異様な形をしていることから、最後の晩餐の様子を演じた舞台の様子として描いているとも言われる。なお、晩餐の画面の上方にある、紋章や花綱が描かれたリュネット(半月形の装飾)もレオナルドの筆である。
一点透視図法の消失点は、中央にいるキリストの向かって左のこめかみの位置にあり、洗浄作業によってこの位置に釘を打った跡が見つかった。こめかみの位置に釘を打ち、そこから糸を張ってテーブル、天井、床などの直線を描いたと考えられている。12人の弟子はキリストを中心に 3人一組で描かれており、4つのグループがほぼ等しい幅を持つよう左右に等しく配置されている。これらの配置はまた、背景の分割によってより明確になるよう描かれている。キリストの顔や手などには未完成と思われる部分もある。弟子たちは顔よりも手の形によって表情が表現されており、様々な手の表現がこの絵画の大きな特徴の一つである。
キリストの向かって左の人物は定説では使徒ヨハネとされている。他の使徒がキリストの言に驚いて慌てた仕草をしているのに対してこの人物は(モナリザのように)手を組んで落ち着き、哀しそうな顔をしているようにみえる[1]。また青い服に薄赤のマントの人物はペトロの言葉に耳を傾けるように描かれており、ヨハネによる福音書13章23-24節の、ペトロがヨハネに問いかけている場面を絵画化したと見るのが穏当であろう(イエスの愛しておられた弟子を参照)。
バルトロマイ - テーブルの左端、つまりイエスからもっとも離れた位置におり、イエスの言葉を聞き取ろうと立ち上がった様子に描かれている。
イスカリオテのユダ - イエスを裏切った代償としての銀貨30枚が入った金入れの袋を握るとされる。(ただし、マタイによる福音書では、イエスを引き渡した後で銀貨を受け取ることになっていたが、ダヴィンチは、聖書にある「手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」の表現が難しかったためではないかと言われている。
ヨハネ - 十二使徒のうちもっとも年少で、聖書では「イエスの愛しておられた者がみ胸近く席についていた」と記されている。中性的顔立ちと『ダ・ヴィンチ・コード』の影響からか女性と思われがちだが、それはこの作品を問わずレオナルドに良く見られる画風である。(ヨハネによる福音書13章23節)
トマス - 大ヤコブの背後から顔を出しており、体部は画面ではほとんど見えない。右手の指を1本突き立てているのは、「裏切り者は1人だけですか」とイエスに問い掛けている姿と解釈されている。左手はよく見るとテーブルの上に置かれている。
マタイ - テーブル右端のマタイ、タダイ、シモンの3名は互いに顔を見合わせ、「今、主は何とおっしゃったのか」と問い掛けている風情である。イエスから離れた位置に座る彼らにはイエスの言葉がはっきりと聞こえなかったのかもしれない。
この時代までの最後の晩餐の絵画は聖人には必ず後光がさしていた。また12弟子の中で裏切り者とされたユダは、後光が無い、あるいは横長のテーブルに一人だけ手前側に座るなどの構図で明らかに区別されて描かれていたが、レオナルドは12人の弟子を等しくテーブルの奥側に配置し、後光も描かなかった。かわりにキリストの背後に明るい外部の景色を描き、ユダの手には銀貨を入れた袋を持たせ、顔に陰をいれることで区別が図られている。なお、ユダの背後にはナイフを握った手が描かれている。この手はペトロの右手であるとするのが一般的であるが、オリジナル画面の剥落が激しいため、判然としない。そのため、「この手をこの向きにできる者はおらず、この手の持ち主は謎である」とする説もある。
伝統的に赤い服に青いマントとされていたキリストは、伝統に倣った容姿で中央に三角の構図で描かれ、3人一組となった弟子はそれぞれ台形の構図でキリストを囲むように描かれている。遠近法、背景、弟子の表情、手の動き、目線、配色、構図など、あらゆる点で中央のキリストに注目が集まるよう工夫がされている。
テーブルの上には、折り目のついたテーブルクロスが広げられ、大皿が3つ、それに取り分け用の小皿と、手洗い用の水を入れた皿(フィンガーボウル)、塩壺と思われる小型の容器、ナイフ(フォークはない)、ワインを入れた小さなグラスなどが置かれている。剥落のため、細部ははっきりしない部分もあるが、ワイングラスは(ユダの分も含め)13個置かれていることがわかる。20世紀末に行われた修復の結果、皿の上にあるのは魚料理であることが判明した。他に、丸型のパンと、レモンまたはオレンジと思われる果物(魚の風味をよくするためのものと思われる)が見られる。
西洋絵画では、通常、壁画や天井画にはフレスコ画の技法を用いる。しかしこのレオナルドの『最後の晩餐』はフレスコ画ではない。フレスコ画は古代ローマ時代から用いられており、漆喰を塗り、それが乾ききる前に顔料を載せて壁自体をその色にする技法である。この技法で描いた絵画は壁や天井と一体化し、ほぼ永続的に保存される。しかし、漆喰と一体化するため、使用できる色彩に限りがあり、漆喰を塗ってから乾ききるまでの8時間程度で絵を仕上げる必要がある。重ね塗りや描き直しは基本的にできない。
レオナルドは作業時間の制約を嫌い、写実的な絵画とするために重ね塗りは必要不可欠であることから(本作では白黒で陰影を描いた後、上から色味を重ねる手法が多用されている)、完全に乾いた壁の上にテンペラ画の技法で描いた。テンペラは卵、ニカワ、植物性油などを溶剤として顔料を溶き、キャンバスや木の板などに描く技法であり(卵を使用せず、油を主たる溶剤にすれば油彩となる)、時間的制約は無く、重ね塗り、書き直しも可能である。テンペラや油絵は温度や湿度の変化に弱いため、壁画には向いていない。
レオナルドは壁面からの湿度などによる浸食を防ぐために、乾いた漆喰の上に薄い膜を作りその上に絵を描いた。しかしこの方法は結果失敗し、湿度の高い気候も手伝い、激しい浸食と損傷を受ける結果となった。壁画完成から20年足らずで、レオナルドが存命中であった1510年頃には目に見えるほど顔料の剥離が進んでしまっていたことが、当時の記録からわかっている。
500年以上もの期間、この損傷を受けやすい絵画は失われずに残っている。しかし決して保存のための注意が払われてきたわけではない。描かれた当時からこの部屋は食堂として使用されており、食べ物の湿気、湯気などが始めにこの絵を浸食する原因となった。
16世紀から19世紀にかけて、損傷や剥離部分について複数回の修復および剥離部分の書き足しなどが行なわれた。大規模なものは5回記録されている。この時期の修復は修復者のレベルにばらつきがあり、あまり良い結果を生んでいない。中には逆に剥離を進ませてしまった修復が行なわれたり、元々無かったものが書き足されるなどが行なわれた可能性もあり、レオナルド自身が描いた絵がどの程度残っているのか20世紀末頃まで不明であった。
17世紀には絵の下部中央部分に食堂と台所の間を出入りするための扉がもうけられ、その部分は完全に失われてしまった。17世紀末、ナポレオンの時代には食堂ではなく馬小屋として使用されており、動物の呼気、排泄物によるガスなどで浸食がさらに進んだ。この間、ミラノは2度大洪水に見舞われており、都度壁画全体が水浸しとなった。
1943年8月、ファシスト政権ムッソリーニに対抗したアメリカ軍がミラノを空爆し、スカラ座を含むミラノ全体の約43%の建造物が全壊する。その際にこの食堂も向かって右側の屋根が半壊するなど破壊されたが、壁画のある壁は爆撃を案じた修道士たちの要請で土嚢と組まれた足場で保護されていたこともあって奇跡的に残った。その後3年間屋根の無い状態であり、風雨にさらされないよう、また、壁だけで倒れないようそのまま土嚢を積まれてはいたが、この期間にも激しく損傷を受けている。建物は設計図が残っていたため、そのまま復元された。
1977年から1999年にかけて大規模な修復作業が行われ、1980年にこれを所蔵する教会とともにユネスコの世界遺産 (文化遺産) 登録された。その後は複数の扉によって外気との接触を減らし、観光も人数制限などして保存活動がされている。20世紀後半まで保存らしい保存はほとんどされておらず、爆撃の際には壁から3mの位置に爆撃を受けるなどしており、制作当時に奇跡の絵画と呼ばれたが、現在では存在自体が奇跡だと言われている。
絵画の損傷は激しく、記録に残るものだけでも1726年から6回の修復が行なわれている。過去の修復者は画面の剥落を防ごうとして、ニカワ、樹脂、ワニスなどを塗布したが、結果的にはこれらを塗ったことによってますます埃やススが画面に吸い寄せられ、画面は黒ずみ、レオナルドのオリジナルの表現はわからなくなっていった。また、通気性の悪くなった画面には湿気がたまり、カビの発生を招いた。さらに、こうして塗られたニカワや樹脂がオリジナルの絵具もろとも剥離する現象もおき、修復がさらなる破壊を生むことにもなった。18世紀の修復では大規模な補筆が行われ、レオナルドの表現意図がいかなるものであったかが次第にわからなくなっていった。19世紀の修復家は壁画自体を壁からはがそうとして失敗し、壁面に大きな亀裂が走った。
最も最近には1977年から1999年5月28日にかけて大規模な修復作業が行われた。これはミラノ芸術財、歴史財保存監督局によるもので、修復作業は修復家のピニン・ブランビッラ (Pinin Brambilla Barcilon、女性) が一人で20年以上の歳月をかけて行なった。この修復は洗浄作業のみで、表面に付着した汚れなどの除去と、レオナルドの時代以降に行なわれた修復による顔料の除去が行なわれた。その結果、後世の修復家の加筆は取り除かれ、レオナルドのオリジナルの線と色彩がよみがえったが、オリジナルが全く残っていない箇所もかなりある。たとえば、イエスの向かって右に位置する大ヤコブの体部などは、オリジナルの絵具がほとんど失われ、壁の下地が露出している。なお、この修復で新たに分かったことが何点かある。
見学は完全予約制で、数日前に予め電話をするかチケットの入手が必要。また、見学時は予約時間の30分以上前に到着の必要がある。
一グループ最大25人までで、見学は15分程度に制限される。また、会堂内にある柵の外側からの見学となる。見学時間は混雑状況によって多少差がある。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院 - 世界遺産の物件名

 

[ 971] 人間最後の言葉(1988.06)
[引用サイト]  http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/198806.html

「人の一生のしあわせ、不しあわせは、棺の蓋が閉まるまで分からない」と申します。またほかの場合はいざ知らず、死と対する最期のときは、人は本当のことを語るといいます。今回の特集は、日本と外国の有名人の最期の言葉を集めてみました。さまざまの分野で頂点を究めた人達ばかりです。いずれにしても私達が知っているのは、
室町時代の臨済宗の僧。当時の禅宗界をしんらつに風刺して、人間的な禅風を目指した。文明13年11月、寒さや高熱がおそう「ぎやく」にかかり、21日朝に没した。死ぬにあたって彼は「死にとうない」といって、座ったまま眠るように死んだという。87歳。
江戸時代の俳人。『奥の細道』などの作品を残し、俳句を芸術にまで高めた。元禄7年秋、大阪に来ていた彼は1日に20回にも及ぶ下痢に悩まされた。赤痢であったといわれる。9月9日「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という発句を弟子に書き取らせる。10日に「一生旅で過ごし、かねては草を敷き土を枕にして死ぬ自分と覚悟していたのに、こんな立派なしとねの上で、大勢の人々に付き添われて死ぬとは冥加に尽きる」と涙を浮かべて語る。11日には、下痢するものがなくなるくらいにかれる。障子に蝿がとまっているのを弟子が取ろうとしているのを見て「何事も上手下手はあるものだな」といい、それから眠りに入り、午後4時頃息を引き取った。50歳。
播磨赤穂藩家老、のち赤穂義士の首領。討入後、翌元禄16年2月4日、切腹を命じられる。切腹の座に呼び出されたとき、背後から義士の一人が「追っつけおあとから」と声を掛けると、「お先に」と笑って静かに出ていった。44歳。
江戸後期の曹洞宗の僧。諸国行脚の後、郷里越後に住んだ。文政13年7月、激しい下痢を患う。症状は夏から秋にかけ一進一退した。そのときの反古のなかに「ぬばたまの、夜はすがらにくそまり明かし、あからひく、昼はかわやに、走りあえなく」の歌がある。大晦日、介抱していた貞心尼は「生き死にの境離れて住む身にも、通らぬ別れのあるぞかなしき」と口ずさむと、良寛は「裏を見せ表を見せて散るもみじ」とつぶやいた。明けて1月6日夕、眠るが如く去った。73歳。
江戸時代後期の浮世絵師。生涯に93回引越しをし、酒も煙草ものまずただひたすら描き続けた。嘉永2年4月風邪をひき、枕頭には娘や弟子たちが集まった。ここで彼は「ひと魂でゆく気散しや夏の原」と辞世をよみ、「あと10年生きたいが、せめてあと5年の命があったら、本当の絵師になられるのだが」とつぶやいて息を引き取った。89歳であった。
江戸後期の農政家。通称金次郎。安政3年10月20日、今市の居宅で多くの崇拝者に囲まれ、「葬るに分を越ゆるなかれ、墓や碑を立てるなかれ、ただ土を盛り、そのわきに松か杉一本を植えれば足る」といって息を引き取った。69歳。
長州藩士。度応2年小倉城攻撃を指揮していたが、以前からの肺患が悪化する。翌慶応3年4月病床で、「面白きこともなき世を面白く」と書いた。あと望東尼が「すみなすものは心なりけり」とまとめると「面白いのう」と笑って目を閉じた。28歳。
土佐藩の志士。度応3年11月15日の夜、竜馬は京都の醤油屋、近江屋の3階で中岡慎太郎と話し合っていた。8時頃3人の男が訪れ、竜馬の従者に切りつけ、そのあと竜馬と中岡の両名を切った。刺客が帰った後、竜馬は息を吹き返し、残念、残念といいながら、隣室まで這出したが「おれは脳をやられたからもう駄目だ」と微かな声でいってこと切れた。32歳。
幕末の剣客。江戸城無血開城に貢献。明治20年左脇腹にしこりができ、胃ガンと診断された。翌年7月18日、医者の診断では胃穿孔のため急性腹膜炎を起こしていることが判明。19日の払暁に「腹痛や苦しきなかに明けがらす」と辞世の句を詠む。そして手にうちわを握り、座禅を組んだまま大往生をとげた。52歳。
明治中期の小説家。「たけくらべ」「にごりえ」を発表。明治29年11月3日、教師の馬場が一葉を見舞い「冬休みにまた上京しますから、そのときまた参りましょう」といった、すると一葉は苦しそうな声で「その時分には、私は何になっていましょう、石にでもなっていましょうか」と切れ切れに言った。それから20日後、彼女は死んだ。24歳であった。
幕末・維新期に幕臣として、また新政府高官として活躍。明治32年1月19日午後5時頃、風呂から上がると坐り込んで「胸が苦しいからブランデーをもって来
い」と家人に命じる。それをグラスに入れ「今度はどうもいけないかもしれんぞ」といって一口飲んだとたん、倒れて意識を失った。脳溢血であった。彼が息をひきとったのは2日後の午後5時。最後の言葉は「コレデオシマイ」である。76歳。
明治末期から大正初めの小説家。『坊っちやん』『こころ』。漱石は晩年、糖尿病と神経痛と皮膚病とノイローゼと、持病の胃潰瘍に悩まされていた。大正5年11月21日連載小説の『明暗』188回を書き上げ、翌22日女中に書斎に倒れているところを発見される。12月9日、漱石はひどく苦しみ始め、自分の胸をあけて「早くここに水をぶっかけてくれ。死ぬと困るから」というようなことを言い、看護婦が水を含んで吹きかけると「ありがとう」といい、そのあと意識を失ってしまった。49歳。
梅毒の病原体であるスピロヘータの純粋培養に成功したほか、数々の病原体の研究に従事した。1924年アフリカ西南部で黄熱病が発生したため、1927年秋、彼は調査のため現地のアクラに向かった。翌年の元旦より黄熱病の症状を訴えるようになる。5月10日頃から再び黄熱病の症状を訴え、13日見舞いに来た医師に、一度黄熱病にかかって免疫になったのになぜ再発したのか「どうも僕には分からない」と語った。20日には意識不明となり、21日正午頃、息を引きとった。52歳。
生物学者、民俗学者。昭和16年8月、南紀の暴風のなか、裸で菌類のかたずけをしてから発熱。12月28日、病状が重くなったので、家人が医者を呼ばうとすると「医者はいらん」と断わり、「天井に美しいおうちの花が咲いている。医者が来るとその花が消えてしまうから呼ばないでくれ。縁の下に白い小鳥が死んでるから、朝になったら葬ってやってくれ」と不可解なことをつぶやいた。夜になってから「私はこれからぐっすり眠るから、羽織を頭からかけてくれ。ではお前達も休んでくれ」といった。そして翌午前6時30分、死亡。74歳。
詩人、歌人。詩集『邪宗門』がある。白秋は昭和12年、糖尿病と腎臓病による眼底出血で、原稿が読めなくなる。昭和16年の末、歩行困難、呼吸困難になり、翌年2月入院。4月より自宅療養することとなる。11月2日の午後4時頃、白秋は「なに、負けるものか、負けないぞ」とうめいた。長男が窓を開くと「ああ蘇った。隆太郎、今日は何日か。11月2日か。新生だ、新生だ。この日をお前達よく覚えておおき。私の輝かしい記念日だ。新しい出発だ。窓をもう少しお開け。ああ、素晴らしい」しかし最期の発作では「一度安心したせいか、もう打ち勝つ気力もない。駄目だ、駄目だよ」とあえぐようにつぶやいた。57歳。
喜劇俳優。本名榎本健一。昭和44年12月全身に黄疽症状が現われ、翌年の元旦に入院。病名は肝硬変であった。3日に「ドラが鳴るんだよ。船が来たよ、ほらほら」といい、妻のよしえが鷲き「お父さん、船なんか一人で乗っちやだめですよ」というと「うるせいや、早く乗れ」と答えたという。5日。よしえが「病院を出たら温泉にでも行きましょうか」というと「ありがとう」といった。これが最後の言葉である。66歳。
話術家。昭和46年7月22日、腎孟炎で入院。7月末、彼は妻に爪を切ってもらうと、その手を目の先にもっていってじっと眺めた。妻は病人が自分の手を見詰めるようになると、まもなく死ぬという話を思い出して「疲れますよ」といってその手を下ろした。3日後の8月1日午後零時20分、妻に「おい、いい夫婦だったなあ」といって死亡。77歳。
風俗小説家。昭和50年の秋、文化功労賞を受けることになったが、弟たちがお祝いの品を届けなかったことから癇癪を起こし「弟妹たち合わせて100万円もって来い」と怒号した。そのあと彼は心臓喘息の発作を起こした。翌年1月13日、再び発作を起こし意識を失う。午後零時58分急性心筋梗塞により死亡。72歳。
ドイツの作曲家。 1750年の7月、その夏の熱さが彼を苦痛と衰弱におとしいれた。彼は死の床から起き上がり「クリストフ、紙を持っておいで、いま頭のなかに音楽が鳴っている。それを書き取っておくれ。それがこの世で私が作る最後の音楽だ」といって、また眠り込んだ。夜明けにバッハは妻を呼び「私に音楽を聞かせておくれ。もはやその時だから、お別れほ死の歌を歌っておくれ」と頼んだ。家族たちは讃美歌を歌うと、彼の顔は大変柔和になった。7月28日夜10時15分死亡。65歳。
フランスの哲学者。小説家。1777年、17年ぶりにパリに帰った彼は、15日目に血を吐き、重体におち入った。翌年5月30日、病床で司祭が「あなたはまもなくご臨終です。死の前にイエス・キリストの神性を認める気はありませんか?」という問にたいし「イエス・キリスト?」とつぶやいたあと、「静かに往生させてもらいたい」といったのが最後の言葉であった。84歳。
イギリスの経済学者。『国富論』の著者。61歳のときに母をなくした彼は、それ以来健康が衰えた。晩年の1790年7月中旬、見舞いに来た友人に、自分のノート16冊を焼いてもらい、安心したようになった。そして「私は皆さんと一緒にいたいのですが、お別れしてあの世に行かなければなりません」といって寝室に去り、17日に死んだ。67歳。
ドイツの哲学者。カントは一生独身で過ごし、毎日同じ町の同じ場所を、同時刻に散歩するという生活を続けた。1803年12月、彼は自分の名前も書けないほどぼけてきていた。翌年2月11日の夜、彼は友人からスプーンで、葡萄酒と水を甘く割った飲み物を差し出され、かろうじて飲むことができた。このとき「よろしい」といい、これが最期の言葉となった。翌朝彼は息を引き取った。80歳。
フランスの皇帝。1815年6月、ワーテルローの戦いに破れたナポレオンは、セント・へレナに流刑の身となった。ここで彼は数年の内に、食欲不振と足のむくみを訴えるようになった。1821年3月から、ろくな手当を受けることなく、病床についたままとなった。4月に「私はイギリスの暗殺者に殺されるのだ。私の骨はセーヌ河のほとりに埋めてくれ」と遺言した。5月5日午後5時「神よ、フランス国民、私の息子、軍隊の先頭」と、とぎれとぎれにつぶやきながら死んだ。そのとき左目から涙がこぼれていたという。イギリスの薬学者がナポレオンの遺髪を検査した結果、死亡前約4か月にわたって砒素系の毒物を摂取していたことが判明した。52歳。
3月26日の午後、ウィーンの街に雷雨が襲った。彼は雷にむかって右手を上げたが、やがて倒れた。死因はアルコール嗜好による肝硬変であるという。57歳。
ドイツの作曲家。1883年彼は前年からベニスのホテルに滞在していた。2月13日午後、彼は机の前で苦しているのを召使が見付けた。「医者と妻を」と彼は言った。妻のコジマが駈けつけ、薬を飲ませたが利き目はなかった。召使が衣服を脱がせかかると、ワーグナーは「私の時計を」といって、それを最後に妻の腕のなかでこと切れた。70歳。
フランスの小説家。『レミゼラブル』が有名。晩年の5月18日、彼は倒れ、ベッドの中で言った。「君、死ぬのはつらいね」「死んだりなさるものですか」「いや死ぬね」しばらくして「ここで夜と昼が戦っている」とつぶやいた。22日の朝から臨終の苦しみが始まり、午後1時37分に息を引きとった。最後の言葉は「黒い光が見える」だった。このときすざましい嵐がパリを襲い、雷が鳴った。83歳。
オランダ人の画家。1890年5月、パリ北方の小さな町オーヴエルに行き、絵を描き始めた。7月27日の夕刻、麦畑のなかで自分の胸をピストルで撃った。弾は心臓を外れたが、彼は重症のまま歩いて宿屋に帰った。明くる日、急報を受けて駈けつけた弟のテオに、ゴッホは「泣かないでくれ。僕はみんなが幸せになるようにと思って、こんなことをしたんだ」と言った。28日の夜「僕はこんなふうに死んでいきたいと思ってたんだ」といった。29日午前1時半、息を引きとった。生前に売れた絵は、1枚だけであった。37歳。
アメリカの小説家。『トム・ソーヤの冒険』で有名。死ぬ1年前に彼は「私は1835年ハレー彗星とともにこの夜に生れた。来年はまた彗星が近づく。私は彗星とともに、この世を去りたい」と言った。翌年、ハレー彗星が現われた翌日の4月21日、彼は突如狭心症の発作を起こし、絶命した。最後の言葉は「じゃあまた。いずれあの世で会えるんだから」と言ったという。75歳。
フランスの印象派の画家。ルノワールは後半生リューマチに苦しみつつ、最後の20年は手に鉛筆を縛りつけてまでして、描き続けた。1919年12月2日、普段と同じように静物画を描き終え、午後7時頃眠りにおちた。8時頃、いきなり彼は「パレットをよこしなさい。この2羽の山しぎは」といった。彼は幻の鳥を見ているのである。「山しぎの位置を変えてくれ。早く、絵具を、パレットをよこしてくれ」彼は、午前2時静かに息を引き取った。78歳。
名探偵「シャーロック・ホームズ」の作者。彼は第一次大戦に出征した息子を失ったこともあって、晩年神霊学に凝り始めた。1929年秋、彼は倒れ、療養の結果、翌年春に一時回復したが、夏から再び悪化した。30年7月7日朝7時半、妻に「この地上で最も優秀な看護婦へ、と刻んだ勲章をお前のために作るべきだと思う」と言った。8時半、死後世界を信じていた彼は安らかに死んでいった。71歳。
フランスの物理学者。死ぬ年のはじめからラジウムの放射能のため、白血病の症状が現われていた。7月3日午後「これはラジウムで作ったのですか。」などのうわごとを言い、注射に来た医師に「いやです、構わないでください」とさけんだあと、こん睡におちいった。それから16時間後、死亡。67歳。
イギリスの戯曲家。病床に付いたのは94歳で、看護婦に「お前さんは私の命をまるで、古い骨董品のようにもたせようとしているが、私はもうだめだ。おしまいだよ。私は死ぬんだ」といい残して死んだ。94歳。
イギリスの政治家。最後の日に近い誕生日に「私は随分沢山のことをやって来たが、結局何も達成できなかった」と娘に語った。最後の言葉は「何もかもウンザリしちゃったよ」である。91歳。

 

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