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大和とは?/ レイク

[ 509] 大和 (戦艦) - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)

この項目では超弩級戦艦の大和について記述しています。明治時代のスループについては大和 (初代)をご覧ください。
大和(やまと)は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の一番艦。「戦艦大和」と呼ばれることも多い。しばしば大艦巨砲主義の象徴とされる。
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年12月に就役した。その後、連合艦隊旗艦任務を務め、これは司令部設備に改良が施された同型艦 武蔵が就役するまで継続された。1945年4月7日、菊水作戦において米軍の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖海戦で撃沈される。
当時の日本の最高技術が結集し、特に世界最大(当時)の46cm主砲3基9門を備えていた。なお、大和建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業の生産方式のもととなり重要な意味をなす(大和型戦艦を参照)。
艦名「大和」は、もともとは奈良地方(大和国)のみを指す語であったが、使用範囲は拡大し日本全体を指し示す。この巨大艦に日本を象徴する名称が付けられた事から、海軍の本艦にかける期待の度合いが見て取れる(同様の名称として扶桑がある)。正式な呼称は“軍艦大和”である。
大和(計画名A140F5)は1937年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠の造船ドック〔造船船渠〕で起工された(※第4ドック〔第4船渠〕は整備・補修・艤装用ドックで建造用ではなかった)。その乾ドックは大和建造の為に拡張されて、長さが314m、幅45m、深さ11mとなった。米国に本型を超越する戦艦を作らせぬ為に建造は秘密裏に進められ、当初は海軍の中でも一部に知らされているだけだったと言われている。機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根、周囲には干した和棕櫚(わじゅろ。干した物は主に「ほうき」に使われる。ちなみに、そのドックの近所「全ての」干した和棕櫚の葉が無くなり、大騒ぎになったという逸話が残っている)がかけられた。建造に携わる者は厳しい身元調査が行われ、造船所自体が厳しい機密保持のために管制下におかれた。
そして1940年8月8日進水、「天皇陛下進水式御臨席」の噂も飛び交う中、結局は海軍大臣代理より、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦はあえて臨席している面々に聞こえないように小声で“大和”と命名された(なお軍艦の艦名に関しては海軍省の提出した二つの候補から天皇が選定した一つをその艦に命名するのが慣例である)。もっとも、進水といっても、武蔵の様に陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合はただドックに注水するだけであった。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、世界一の戦艦の進水式としては非常に寂しいものに思われたという。1941年12月7日公試終了、同年12月16日就役。
また、大和には当時の最新技術が多数使用されていた。球状艦首(バルバス・バウ)による速度の増加、煙突などにおける蜂の巣状の装甲などである。その他、観測用の望遠鏡や測距儀も非常に巨大なものが採用され、レーダー技術などをのぞけば日本としては最高の艦艇となるはずだったのである。
機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく、空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度とは直接関係はなく、編成上は戦艦が主力の扱いであったためである。
米側はミッドウェー海戦の報を受け、戦艦「テネシー」、「ミシシッピ」、「アイダホ」、「ニューメキシコ」、護衛空母「ロングアイランド」を中心とする第1任務部隊をサンフランシスコより出撃させている。この部隊はハワイ西北1,200浬で戦艦「コロラド」、「メリーランド」と合同し、日本艦隊の西海岸攻撃に備えており、この時点では空母部隊を前衛として戦艦を運用するという思想には両軍とも差がなかった(日本艦隊が空母喪失後もあくまでミッドウェー攻略に固執した場合、米戦艦6隻は同島防衛に動く可能性もあった)。
1942年8月17日、ソロモン方面の支援のため柱島を出航。同8月28日、トラック入港。1943年2月11日、連合艦隊旗艦任務を大和の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型2番艦「武蔵」に移揚。5月8日トラック出航、柱島へ向かう。呉では対空兵器を増強し、再びトラックに向かったのは8月16日。3ヶ月前より戦局は悪化し、ソロモン諸島では激戦が行われていた。10月中旬マーシャル群島への出撃命令が下る。米機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港。
1943年12月25日、トラック島西方180海里で米潜水艦「スケート」より攻撃を受け、3番砲塔右舷に1本被雷する。破口はバルジのみであったにもかかわらず、爆発の衝撃で舷側鋼板の上下の継ぎ目が内側に押し込まれ、機械室と火薬庫に想定外の浸水被害を受けた。敵弾がこの部分に命中すると甚大な被害を受けるという欠陥が明らかになった。トラックで応急修理を受けた後、内地に帰還。この欠陥については修理時に補強されたが、その具体的内容は不明である。
1944年6月15日、マリアナ沖海戦に出撃。機動部隊同士による決戦が繰り広げられる中、米軍攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である。しかし同じ海戦において、周囲艦艇とともに日本側第一次攻撃隊をアメリカ軍機と誤認し高角砲などで射撃、数機を撃墜するという失態も犯している。
同10月22日、レイテ沖海戦に参加。第二艦隊第一戦隊として米軍上陸船団の撃破を目指し出撃。23日早朝に旗艦愛宕が潜水艦に撃沈されたため、大和座乗の第一戦隊司令官の宇垣纒中将が一時指揮を執った。夕方に栗田健男中将が移乗し第二艦隊旗艦となった。24日、シブヤン海で空襲を受け、僚艦武蔵を失う。25日、サマール島沖にて米護衛空母艦隊と交戦、主砲弾を104発発射。大和に突入しようとした駆逐艦ジョンストンを副砲の射撃により撃沈。
但しこれには異説もあり、米側の被害状況と照合すると、まず大和は護衛空母に対して夾叉を得たものの、命中弾は出していない。よく言われる護衛空母ガンビア・ベイに対する砲撃についても、同艦の最初の被弾が0801で、重巡の20.3センチ砲弾を受けたという記録が残っている。大和が空母を砲撃したのは0709までの間であり、大和主砲弾が命中した可能性はほとんどない。
さらにもう一つの異説として、米の護衛空母「ガンビア・ベイ」に大和の主砲弾一発が命中して大火災を起こし、沈没はしなかったが大破したという説である。ただこれは主に当時、乗員であった者からの言葉や日記などから世間に広まったという傾向が強い(重巡利根艦長黛大佐は、著書で戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかったと、強く反論している)。また、米側記録にも該当する大火災発生の事実はない。「当たって欲しい>当たったはず」という精神作用が、防御煙幕や至近弾を火災の煙と誤認させたものと思われる。本海戦において、栗田艦隊の将兵は(至近砲戦に移行してからでさえ)護衛空母と正規空母の識別すらできない精神状態にあったことは有名で、その目撃証言の信頼性はきわめて低い。
諸説が有るにせよ、米側には0725-0730頃、米駆逐艦「ホール」「ジョンストン」が戦艦からの主砲・副砲弾を受けるという記録が残っている。米側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛は、0725にスコールに入ったために射撃を中止しており、同型艦の榛名もこの時刻には射撃していないことから、0727に主砲射撃で「巡洋艦轟沈」を報じた大和の射撃が命中した可能性もある。ただし、この時期には、七戦隊の日本重巡各艦も「ホール」「ジョンストン」を砲撃していたため、これも確実なものとは言えない。
いずれにせよ、この砲撃で米駆逐艦が致命傷を負った形跡はないことから、命中弾があったとしても「戦艦の主砲弾で」艦橋上のMk37射撃指揮装置を吹き飛ばされた「ホール」ではないかと言われている。
また大和が副砲弾を命中させた「ジョンストン」(副砲は「ホエール」にも命中弾を与えたとされている)も、十戦隊の軽巡「矢矧」以下が止めを刺しているため、大和が敵艦を直接葬った可能性はない。なおこの海戦で、大和が電測射撃で重巡鳥海を味方撃ちしたという説もあるが、鳥海及び筑摩が損傷した時期には、日本戦艦がこの両艦を誤射するような射撃機会を得ていないため、これは誤解である。
レイテ沖海戦では往復の航程で米軍の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中、約4,000トンもの浸水を受けるも、戦闘継続に支障は無かった。特に砲塔を直撃した爆弾は、大和の装甲があまりにも厚かったため全く打撃を与えることができずに砲塔の塗装をはがしただけに終わった(ただし、第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う)。
レイテ湾の入り口まで来たが、結局栗田長官は近隣に米機動部隊が存在するとの誤報を受けて反転を命じ、突入することなく引き返している。引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍機が攻撃にきた。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した。
呉に帰港した後の1945年3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。呉から徳山沖に退避したため、目立った被害はなかった。
同年3月28日、「次期作戦」に向け大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられたが、米軍機の空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、第二艦隊を徳山沖に回航させた。
3月30日、米軍機によって呉軍港と広島湾が1034個の機雷で埋め尽くされ、呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥る。
4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」
4月6日、「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任される。第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」る為にと神重徳大佐(終戦直後、飛行機事故で水死)の発案が唐突に実施されたものであった。一般には片道分の燃料で特攻したとされるが、燃料タンクの底にあった油や、南号作戦で必死に持ち帰った重油などをかき集めて三往復半分の燃料を積んでいたともされている(下記も参照)。
なお、米軍偵察機 (F-13) により上空から撮影された出撃直後の大和の写真が2006年7月米国にて発見された。当時の大和の兵装状態は未だ確定的な証拠のある資料はなく、この写真が大和最終時兵装状態の確定に繋がると期待されている。
菊水作戦(坊ノ岬沖海戦も参照のこと)の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまり、その航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和し、もし、沖縄にたどり着ければ東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し乗員は陸戦隊として敵陣突入させるというものであった。アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能にちかく、作戦の意義はまさに、一億総特攻の魁(さきがけ)であった。しかも戦争末期には日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近では米潜水艦スレッドフィンに行動を察知され、特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡されたという。
当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていたが、「大和」が西進し続けたため日本海側に退避する公算があると考えマーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じた。航空機攻撃が失敗していれば世界最後の戦艦同士の砲撃戦になっていた可能性があった。
しかし、スプルーアンスが戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャーが先に攻撃部隊を送り込んでしまった、という説がある。
大和は爆弾の直撃を受け、艦内では火災をおこし艦上では対空兵器が破壊された。米軍の高性能爆薬を搭載した魚雷による効果的な左舷集中攻撃の結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。後部注排水制御室の破壊により、注排水が困難となった。また副舵が故障し、舵を切った状態で固定され、直進乃至左旋回のみしか出来なくなった。この事は傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと勘違いする生存者もいる。これより容易に米軍は大和に魚雷を命中させ得た。傾斜復旧の為に、右舷の外側機械室と3つのボイラー室に、注水命令(いわゆる「無断注水」だった、という説もある。)が出されているが、機械室、ボイラー室は、それぞれの床下にあるキングストン弁を人力で開く必要があり、実際に操作されたかどうかは、生存者もいないため不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。大和への最後のとどめになった攻撃は、右舷後部からの魚雷攻撃で、大和の艦底を攻撃するために、意図的に深度を深く調節された魚雷が使用された。そのためこの魚雷が命中した時は、艦橋でも今の魚雷は見えなかった、という士官の報告がある。また今までの魚雷命中に無いような 下から突き上げられた後に、艦全体がブルブル振動して、グッグッと沈下したという証言もある。
最後に魚雷が命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増し、3分後に総員退去が命ぜられた。しかし、艦内の大半のものに「総員上甲板」は知られず、総員上甲板(総員退去)の発令3分後には大傾斜赤い艦腹があらわになる。艦橋トップの測距所からは、煙突に轟々と海水が流れ込み、そこに兵員も吸い込まれるのが見られた。14時23分横転し海中に没する(転覆が正しいかもしれない)。第2主砲塔 第3主砲塔の弾薬庫が大爆発(機関部が水蒸気爆発を起こしたという説もある)、艦体はバラバラになり海に沈んだ。そのときに発した火柱やキノコ雲は、遙か鹿児島でも確認できたという。だが、視認距離を求める公式L1(km)=116.34×(√ho(km)+√ht(km))(←L1は水平線上の最大視認距離、ho は水面からの眼高。ht は目標の高さ。坊の岬最高点は96.9m 爆煙が雲底到達した高度は1,000m)に当てはめてみると視認距離は152.6Kmとなり、計算の結果は213キロ以上も離れた鹿児島県からは確認できないこととなる。例外として、山などの高いところに上がれば視認は可能となるが、当日の悪天候の気象条件から見て、鹿児島県内の山などからこれを確認するのは至難の技となるだろう。爆発は沈没してからという意見と、沈没前という意見と両方あるが、転覆後という点では一致している。大和沈没により古村啓蔵少将は一時は作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は作戦中止を司令部に要求し、生存者を救助のうえ帰途についた。
同型艦の「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾し、炎上しながら9時間程耐えたのに比べ「大和」はいささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中したためと、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めたからであり、大和の操艦や性能が武蔵に劣っていたわけではない。米軍航空隊は「武蔵」一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型の攻略法を考えていた。その方法とは片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようという物で、実際に第一波攻撃では「大和」は魚雷を被弾していない。しかしながら、米軍側と日本側の戦闘記録による命中数と被弾数には大きな食い違いがあり、魚雷に至っては米軍側は一説では30本以上の命中を主張しており、その戦闘の激しさを物語っている。
また、大和も武蔵も設計上防弾と浸水防御を重点的に施した(いわゆる集中防御方式)部分(主砲、機関部)には被害がなく、それに浮力を与える前後の非防弾区画に水雷や爆弾を集中的に受けた結果として浮力を失って沈没していたので、その部分への水密鋼管の充填、防水隔壁の強化をしていれば「一度の航空攻撃では、大和も武蔵も沈まなかった」との意見が戦後旧海軍関係者に存在した。また、主砲は傾斜5度、副砲は10度、高角砲は15度以上になると射撃不能となるため沈まずとも戦力となったかどうかは疑問である。
なお、菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか積んでいなかったとされていたが、実際には約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいた。重油タンクの底にある計量不能の重油を各所からかき集めたもの、及び海上護衛総隊割り当て分7,000トンの内4,000トンを第2艦隊向けに割り振ったためで、実際にはその量だと全速力でも3往復はできたという。とはいえ、空襲への回避運動や敵艦隊との水上戦が発生したなら、長時間に及ぶ高速での迂回航行を想定する必要があったし、また戦術的な擬装航路の実行なども合わせて考えるなら、決して余裕のある燃料量ではなかったとも言われている。 なお、うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円分ほど)。また出撃に先立ち(5日午後)、傷病者と若干の老兵、兵学校卒業直後の53名の士官候補生が退艦させられた。
戦艦大和の沈没によって、連合艦隊は引導を渡されることになった。1945年4月25日、連合艦隊だけでなく海上護衛総隊及び各鎮守府をも指揮する海軍総隊が設けられ、終戦まで海上護衛及び各特攻作戦の指揮を執る。
この3案に対し古村少将、山本大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた。 しかし突然4月4日神重徳大佐から電話により特攻作戦が内示された。 この命令は連合艦隊司令長官と軍令部総長の決裁後に軍令部、連合艦隊の幹部に通告されたため反論しようがなかった。
特攻命令を伝達に来た聯合艦隊参謀長草鹿龍之介中将に対し伊藤中将が納得せず、無駄死にとの反論を続けた。自身も作戦に疑問を持っていた草鹿少将が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上中佐が口を開いた「要するに、一億総特攻のさきがけになっていただきたい、これが本作戦の眼目であります」その言葉に伊藤中将もついに頷いたという。
『戦藻録』(宇垣纏中将日誌)によれば、及川古志郎軍令部総長が「菊水一号作戦」を天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との御下問があり、「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったということである。
現在の大和は、北緯30度43分、東経128度04分、長崎県男女群島女島南方176キロ、水深345mの地点に沈没している。艦体は1番副砲を境に前後二つに分かれ、艦首は北西(方位310度)に、艦尾部は東(方位90度)方向を向いている。右舷を下にした艦首部より1番副砲(0〜110番フレーム付近)までの原型をとどめた部分、転覆した状態の3番主砲塔基部付近より艦尾までの原型をとどめた後部(175〜246番フレーム付近)が約170メートルの間に、原型をとどめぬ艦中央部は一つの起伏となり艦尾艦首の70メートル南に転覆した状態で、根元から折れた艦橋は艦首の下敷きとなり、各々半分泥に埋まった状態で沈んでいる。3つの主砲はすべて転覆時に脱落しており、砲塔の天井をしたにして海底に塔のように主砲構造物が直立している。主砲砲身自体は泥に埋もれており観察できていない。また2番砲塔のみ酷く破損しており、沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠といわれている。1番と3番主砲には著しい損壊は認められていない。2つの副砲も同様に転覆した状態で海底にあるが、こちらは砲身が指認されている(NHK特集『海底の大和、巨大戦艦四十年目の鎮魂』にて放送)。
4つのスクリューのうち 3つは船体に無傷で付いているが、1本は脱落して、海底に突き刺さっている。沈没時の爆発でスクリュー軸が折れて、脱落したものと思われる。舵には損傷はない。艦首部分には 左右に貫通している魚雷命中穴があり、その他にも多数の破孔があるようだが、詳細な位置は一般には公開されていない。
現在、検閲の為極秘裏に保管されていた「大和型戦艦」と思われる2隻の戦艦が動く映像が発見されている。 かなりの距離から撮影された物で、どちらが大和で、どちらが武蔵かは不明である。
ノンフィクション、戦争文学の古典と位置付けられている。しかしその内容の真実性については一部疑問も投げかけられている(駆逐艦の短艇指揮官の行動など)。
奈良県天理市にある神社。大和の艦内には同神社の分霊が祀られており、その縁で現在、坊ノ岬沖海戦における大和と第二艦隊の全戦没者3721名が祀られている。

 

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