値するとは?/ レイク
[ 505] XHTML+CSS (r)evolution, 3rdの内容は信ずるに値するか? (kuruman.org > Kuruman Memo)
[引用サイト] http://kuruman.org/diary/2007/06/03/html5-is-not-so-bad
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上記リンクを辿るとサーバのなかを思いっきり探し回ったのですが、ファイルが見つかりませんでしたと言われてしまうようです。いつの間にデッドリンクとなったのか定かでありませんが、資料へのリンクはそのまま生きているようです。また、おそらく一字一句違わぬエントリーが下記より参照できますのでこちらも併せてご覧下さい。 この文書が長いと思う人は見出しだけ読めば良いでしょう。概略はつかめるはずです。HTML 5はそれほどに無茶苦茶な提案ではありません。 思いますなんて曖昧な表現はやめてほしい、という話はさておき、再構築の本当の意味については、ディスカッションにてW3Cのカール氏が説明していた。その内容は文字起こししてある通り、内容的なものではなく体制の一新といったところだろうか。 ここには知らない要素もいくらか登場する。だが、既存の要素のほぼすべてはそのまま残っており、基本的な概念は変わらない。drasticな、徹底した改訂という印象を受けるほどではないと思う。 なお、新たに追加定義される内容については追加定義される多数の要素の項で少しだけ紹介している。 今回のイベントでは著作権情報として記載されている内容から益子さんが類推した内容は語られたが、なぜ著作権情報が存在しているのかについては一切語られなかった。これについてはマイコミジャーナルがうまくまとめているのでそれを参照するとよいだろう。 もちろん実装されるまでの期間は併記する必要があるだろうが、この程度の実装が長々と放置される可能性は決して高くないだろう。 フッタに使われうる要素としてaddress要素型がある。かつて論文を公開するにはこれで事足りていたのかもしれない。しかしこれが今の用途を満足させるものではないことは、説明するまでもない。 しかし、会話の内容はそれ自体が文書にとっては引用で、話し手はその出典である。そう捉えると、以下のマークアップの方が妥当だ、と思えてこないだろうか。 まず、スライドからポイントとしてあげられていることを引用する。ポイントは大きく2つに分けられるだろう。 ドラフト草案すら公開されていない仕様であるため推測以上のことを語ることはできない。しかし、これだけは言っておきたい。私にはなぜここにきてXMLの話がポイントになるのかさっぱりわからなかった。HTML 5もXMLとして扱えると自分で述べていたではないか。質疑応答で問おうと思っていたが、その時間は残念ながらとられなかった。 いま話題の「HTML5」とHTMLの再開発という題目で行われているにもかかわらず肯定的な話を一切せずに終始否定し続けるのはいかがなものか。聴衆が再開発について考えるにはあまりに情報が偏りすぎている。端的に言ってしまえば、これは情報操作に近い。 益子さんのプレゼンテーションでしばしば繰り返し述べられていたのは以下の主張であった。 もちろん永久に実装されることのない仕様に価値はない。しかしHTML 5は本当にそうだろうか。今回のプレゼンテーションでは実装されないという主張を多く口に発していたが、その根拠は提示されなかった。 これが仕様を先に策定することを否定しているのだとしたら、とんでもないことだ。それは健全な競争を阻害することと相違ない。せっかくWebブラウザに競争が生まれつつあるというに。仕様が先に策定されないと云うことは、実装がすべてということ。つまり、実装を持ってそれが仕様となる。その仕様すら公開されない場合、実装を元にほかの環境が似て似つかぬ実装を行うことになるのだ。公開されたとしても、実装までの期間には相当な差が生まれることとなる。 一応コンテンツを作成することはできるし、それを一般的なユーザは利用することができる。だが、Webアプリケーションのアクセシビリティなどを考え始めると全くもって十分とは言い難い事実に気づく。WAI-ARIAなどはそれを白日の下にさらしている好例だ。 なぜならば、HTMLのボキャブラリ内でリストの扱いを判断できなくなるからだ。たとえばリストを50音順にソートし直すことが妥当かどうか、どこかで定義されていない限り判断することができない。スライドにもあるとおり、XHTMLは単なるボキャブラリ集のひとつだ。ボキャブラリとして活用するためにはそのボキャブラリの中にリストの扱いが定義されていなければならない。 具体的な弊害としてはユーザスタイルシートの作成ができなくなるといった事例を挙げておこう。 結局どこかで定義するのであれば、既に色々な人が気ままに活用しているclass名より、新たな要素として定義した方が応用しやすい。class属性の値は、たとえ同じでも、他の誰かが、他の用途のために使っている場合がある。そのようなマークアップをデータとして永続的に使うのは不便この上ない。 classやidによる拡張は可能だが、それは共有することが困難な拡張だ。はじめから多くの人が似たようなものを必要とするのであれば、それははじめから定義されていた方がよい。わざわざ勝手に拡張させる必要はないのだ。(必要とされていても定義すべきでないものも存在するけれど。) |
[ 506] 世界は称賛に値する
[引用サイト] http://d.hatena.ne.jp/meltylove/
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▼読んでみたら好きって思えるんだろーなー、と蛮勇で判断しながら、読めていない書物が沢山ある。少しずつ切り崩している。だから、今年もいくらか切り崩していくことにはなるのだろう。飛浩隆と円城塔が筆頭だろうか。小川一水、冲方丁、伊藤計劃も読めていない。SFが多い。のは、好きすぎるからだ。正直なところSFに関しては昔から「好き避け」をしているのだとか言えてしまう。神林長平、大原まり子、も読んだことない。須賀しのぶ、多崎礼、長谷敏司、桜坂洋、加納朋子とかもまだだ。酒見賢一、田中芳樹、野呂邦暢、津原泰水、山田風太郎、大西巨人、も読もう。山村修、岡田英弘、井筒俊彦、鬼界彰夫、中込照明、福岡伸一あたりにも触れてみたいと思う。読んだことがない邦書、に限定してすらこの量だ。楽しすぎるなあ。▼起床は午前7時あたり。おめでとう。 ■[思考記]勝手に定義して独り言みたく語らないことと、理屈を保持しつつ理屈メインにしないこと ▼勝手に定義して勝手に判断を下すことが、まあ、減ったとは思う。例えば、神様なんていないとかあんまり言わなくなった。神様の定義が沢山あることを知ってしまったし、神様の定義によっては、確かにそういう神様だったらアリだと思うしそういうものならいるかもしれないけどさあ、なんて言いたくなることを知ってしまったからだ。最後に転換しうる可能性にちゃんと気付いているのに、最初っから断言してもしょーがないね、って感じだ。断言を目指すなら、せめて定義から話したい、とも思う。誠実というのはそういうものでは、と最近は思うので。でも、定義とか理屈っぽいよー、という指摘もありえると思うので、うーん、こういう指摘を巧く回避する術、というのも、同時に模索しないとなのだよな。誰にでも感情の壁みたいなのがある。論理だけでなくそこも抜けないとね、というようなことを最近は思う。賢明さ、明晰さ、というのはそのあたりにあるのかなと。 ▼意味の通らない文章、つまり、論理的でない文章、というのが、たとえば論理学の書籍などを読んていると時おり出てくるのだけど、そういうものを、無理矢理「解釈」しようとしてみるのが、結構好きだ。楽しんでいる自分を発見できる。しかも、勘違い的なものを導入するのではなくて、無理矢理思い浮かべようとするのが好きなのである。 ▼区切るのは区切りに意味があるからだろう。いやもう絶対そうだよ、と最近は思う。やはり、きっかけがないと動けない、んだろう。意志の源泉は意志ではないらしいので、契機を外部に求めることも、時には必要なんだと思う。意味ないと思えても、たとえば誕生日という制度があるおかげで、意識可能な意思、というのが、あるんだ。きっとそうだ。 「わしの眼鏡」というのは、およそ世の人間すべてが等しく注意すべき、人生における落とし穴の一つである。要するに、眼鏡を探して、家中探しても見つからなくて、実は自分の額の上に自分でひっかけておいたのを忘れていたという、そういう昔の漫才やまんがによくあるばかばかしい状況のことだが、ばかばかしいからといって自分が被害を受けずに済むわけではない。むしろ逆だ。ばかばかしいからこそ、いざ自分が「わしの眼鏡」に囚われていたと知ったときの後悔が深く辛いものになるのである。 探し物はしばしば自分の額の上にある。人生とはそういうものだ。だから、探し物というのはできるだけ一人でしないほうがよい。また、途中から探し物に加わった人は「その額の上にあるのは眼鏡じゃないの」と指摘することを恐れてはいけない。ちょっとくらいうるさがられても、それが第三者の役割というものだ。 ▼終わりの始まり、とか、始まりの終わり、とかが好きだ。脳裡でいったんひねってみないと姿が綺麗に見えてこないもの、が、かなり好きらしい。数学のすごいひと、なんかを見ていると、ひねらなくてもごくごく素直に複雑な構造が見通せてしまう人、というのもいるようで、悔しく思ったりもする。もう無理か、って思ってしまっているところもあるからだ。諦めるつもりはない。が、序盤のうちにきちんと布石しておかないと形作れない戦術が存在する、ということは、経験からも学習している、のだ。幼少期って大事、という話である。というわけで終わりの始まりだ。始まりの終わりではない。大晦日。大晦日がなぜ大晦日と呼ばれるのか、聞いたことはある、はずだ。が、憶えていない。世界の多数は常に忘却にさらされている。ということを、きちんと悲しく思う暇もなく、世界は終わっていくのだろうな、なんて思ってみた。では、また、明日。▼起床は午前11時。 ▼発語したものからのフィードバックを受けてしまうぜ、みたいな観念を獲得しなかったら、現在の位置にはいなかっただろう。もっと迂闊になっていたかもしれない、し、あるいは、もっと素直になっていたかもしれない。いずせにせよ同じこと、かもしれない。迂遠と策謀の申し子、みたいに、現段階ではなっている気もしているけれど、別に特に問題ないよねえ、って根でははっきり思っていて、だから、まあいいのだろう。いいのだと思う。というあたりが説明しづらいな、とは思っている。単純に言ってしまうなら、己の発言が己の精神に与えるかもしれない影響までいちおう視野に入れて発言をコントロールしているつもりなっていたりするけれど、素直にそういうスタイルが良いものだって断言して笑えるよ、ってことである。経験から言って、伝わるか微妙だな、って思ってしまうところは多い。が、でも、こうしてずっと書いてきていて、おかげで、ここでは、伝わりそうなひとたち、に伝わるのかもしれない、っていうのは、結構思っていたりもする。遠回しに感謝を描写しているつもりだが、莫迦みたいなので、とりあえず笑っておこう。 ▼抽象的概念と景色を組み合わせたりするのが好きだ。雑な例になるが、飴細工を熱烈に因数分解したような景色だった、とか書くのが、楽しい。適切な例かは怪しい。あと、かなり好きだと思っていながら、あんまり書いたことはない。熟慮が要るからだ。ぽんぽんとは出てこない。でも、簡単なところでうろうろしていても駄目かな、って思ってしまうところもある。改善は見込めないかな、という判断だ。経験則である。普段手を抜いてるからこいつはちょっと追い詰めたほうがいいんだよ、とか思っているのである。 ▼滅茶苦茶嬉しいと文章を沢山書きたくなる。書いても描いても全然書き切れていないような気分になってしまうからだ。まだ全部書けていない。まだ全部残せていない。ちゃんと書かないと、このまま消えてしまう、とか思ってしまっているのだ。記録と記述に価値を置いている、わけだ。置きすぎだろうか、とは思う。綺麗で大切なものは、わざわざ文章にしなくても、綺麗で大切だよね、という形の思想は、好きだ。共感できる。普段は採用しているところも多い。でも、何て言うんだろうか。ちゃんと言葉にしておくと残るものがあるよね、っていう形の思想も、同じくらい好きなのだ。言葉が好きだからそう思うのか、そう思うから言葉が好きなのか、は、わからない。別にどっちでもいい。というのは嘘で、どっちでもいい、とあえて言ってみるのは好きだけど、どっちでもいい、とは微塵も思っていなかったりする。▼起床は午前10時。年末進行の匂い。忙しくはないか。 「その蝋燭は、平和であるとか、祈る感情であるとか、そういったものの暗喩であると思っていいですか」 「かまわない。花束と置き換えてもいい」マスターはすぐに答えた。「もし、そういうことが起きたら、世界で起きている大半の問題は解決すると思わないか?」 [伊坂幸太郎作品を読むのは初めて][ファシズムと全体主義と自分で考えることと自分で考えろを題目にした集団][世界を変えられる?][おだやかな異能] いずれにしても、一度簡単になったものは、絶対に複雑な方へは戻らない。これも歴史が証明しているところである。 ▼情報操作で人を操れるのだろうか、なんて問いは無意味だろう。当たり前だよな、とは思えるからだ。情報を巧みに操ることで相手に気付かせない、なんてこと、無理なわけがない。情報不足で誤解していて後悔する羽目になった経験をどんだけ持ってんだ、という指摘すら思い浮かべてしまう。情報を隠蔽して恥を隠したこともあるだろ、とも思う。統計が欲しい、と思うのは、むしろ、思い通りに操作できた、という真実が、いかほど存在していたのかな、ということだったりする。操作可能、はあっさり認識できても、実際の成功度合、は、まるでわからないからだ。ずっと謎に思っている。悪いけど演技や虚言が透けて見えるぜ、という経験もまた、多い。同様に、見透かされたことも、見透かされなかったことも、あるのだろう。ただ、割合がわからない。ずっとバレバレの可能性、というのは怖いと思う。というほど隠蔽してはいないつもりだ。が。▼起床は午前5時半。 ▼結果的にそうなっている、という時にしか、満足を覚えられない、ってことが、時おり絶望的に思えたりもして、でも、絶望じみた気持ちを感じてしまうことこそが、もう、頭が固いよ、ってことの証明なんだろうな、って思う。思い通りに何にでも備えられると思うなよ、って話だ。意識的に選択しようとする、のでは、辿り着けないところがある、のだろう。意識的、という回路を組み込んだ時点で、完成不可能になってしまう、概念、があるんだ、って思った。人助け、というものをしてみたいな、とか最近はよく考える。でも、できる気がしない。人助けをしよう、と、考えて、動くと、ほとんど「人助け」ではなくなるからだ。志すと破綻する――気配を感じる。という境地があるんだろうと最近は考えている。同時に、対処についても考えている。おそらく、対応できないわけではあるまい。あるまい、と思う。無意識もまた操作は可能であろう、というような位置に、現段階では立っているからだ。繰り返し――習慣――癖――センス――というような流れを踏むことで、意識していない時の動き、にも、変化を加えられる。時間はかかり、手間もかかる、が、不可能ではない。という期待がある、のだ。期待したいと思っている。 ▼限界まで君らのことを優先したことなんてないんだ。なのに、感謝なんてされるいわれがあるんだろうか。というあたりが、わりと的確かもだ。あまり綺麗じゃないなあ。普段は結構さっぱりあっさり動いているのに、いざ向き合うと、複雑怪奇で、どうしていいのかわからないぜ、って感じだ。思考の意味ないじゃん、と苦笑しておく。こういうの、間違いや勘違いがある、ってぼんやりわかっているのに、巧く誘導できないなあ、って最近はよく考える。固定観念はやっぱり手強いぜ、というか。無いように振舞うことはできるけど、無くすのとはやっぱり違うなあ、というか。往来可能が極上だとは無論思う。目指しておこう。職場へ向かう。軽く手伝いに行った。ギリギリの匂いがしたからだ。余裕を発生させたかった。なんて考えて、このあたりだな、って思ったりもした。たぶん余裕がないのが嫌いなのだろう。せめて余裕を作るために生きたい、みたいな感覚がある。 ▼みんな褒めてるんだもんなあ、欲しくなるよ、というあたりが的確なところだろう。米澤穂信が好きなら、みたいな言説も、強い影響を与えていた。ミステリは好きだけど、がちがちのミステリ、はあんまり好みじゃないのかも、と、最近は考えている。ミステリには、謎と解明、という形式だけでなく、世界観においても、ミステリっぽいぜ、というのが、あるように思う。謎を追い出すとどうしても滲み出る雰囲気、みたいなものだ。 想像するに、相手の幸せそうな顔が、自分にも嬉しいと感じるときが人間にはあるようだ。僕もときどきそう感じる。子供たちはもう大人になったけれど、彼らが自分の好きなことに熱中している姿は見ていて素直に楽しい。これが「優しさ」というものだろうか。もしそうなら、趣味に没頭することで触れることができる唯一の社会性だろう。 ▼窓の向こうに目を向ける。世界を眺める。冷徹はないように思えた。珍しい。無い、と思う時、脳裡には、在る、を持った光景が浮かんでいる。対比で「無い」と言いうる。否定文を書く時は、肯定文が先に存在している、ということだ。冷徹が在ること、が、冬としては自然に思えていた。でも、違った。から、書けた。という「遠さ」を何故か描いてみたかった。環境を変えよう、という形の論旨や論点において、結局は何が「可能だ」と言えるのだろうか。環境は変更可能だと思う。でも、世界は変更可能かわからない。という感覚は正直ある。でも、環境や世界、と言う時、視線の先にあるものは、同じだ、って結構思う。範囲の違いでしかない。世界も環境だと思えば変更可能性を見出せるし、環境も世界だと思うと変更可能性に迷いが生じる。後者に関して言えば、運命決定論を打ち破りきれないのに類似した匂いさえ嗅ぎ取れる。▼起床は午前6時。お節介をする予定。 ▼言葉遊びを無意味だと思ったことはない。というか、思いたくないのだと思う。明確な言葉遊びにさえ何かあると思いたい。言葉遊びで何かを生んでみせるぜ、とか、種火にはできるだろな、とか思っているのだ。あくまで取り扱いかたの問題だろう。なんて認識している。目標を立てたりする時などに、言葉遊び的要素を混入してしまう、のには、ぼんやり気付いている。言葉では何とでも言えるだろうけど、現実とか具体に即した場合、結局どういうところを目指そうとしているわけ? なんていう酷薄な疑問文を思い浮かべてしまうことがある。極端な比喩の例示になるけど、真夏のような人生、怜悧な人生、分厚い辞書のような人生、などを目指したい、なんていう表現でも、怪しげながら、何かは伝わるだろう、と思うのだ。雰囲気はわかる。というか、わかるような気がしてしまう。無論、繊細な危うさは承知している。誤解の種にもなりうる。慢心の匂いもあるだろう。だから、駄目かも、って思ってしまうことも、多い。多いが、無意味にはしたくないな、とも思うのだ。結局ゴミじゃん、とか認識して、排除してしまいたくは、ない。可能な限り汲み取ってはゆきたい。慎重や繊細を捨てなければ可能なんじゃないかな、って思う。今はまだ思える。定義が曖昧で、比喩が粗雑で、具体性に乏しくて、おかげで、明確明瞭素敵な指針、にはできない、としても、第一歩として、くらいなら、ま、アリなんじゃないかな、と思える。とか考えてきて、やっぱり捨てたくないな、って考えていた。言葉遊びみたいなところから始まる第一歩、を捨てたくない。じゃないと、複雑をちゃんと持った道のり、に近づけないような気がしてしまう、からだ。わけがわかる目標、ばっかりじゃあ、廃棄されてしまうような要素を、捨てないために、残しておきたい、なんて言える。 ▼誰もが似たようなモン、なのだろうか。あるいは、やっぱり全然違うんだろうか。位置の違いなのか、深度の違いなのか、というのは、ずっと疑問に思っている。ぼんやり検証を続けている、という意味だ。数年前の自分と現段階の自分は、簡単に言うと、かなり違うモノだと思う。進化している。のだけど、深化している、が正確なのだろう。位置に変わりはない。でも、深くなった。ま、納得が増えたぜ、というだけのことではある。つまり、根源に近いところで「わかった(とりあえず)」と思える部分が増えた、のだ。というのが、現在と過去の違いだろうな、というのは、はっきり思っていて、たぶん間違いもないだろう、とも思っている。位置や種類が変わったわけではないんだな、とか。というあたりから敷衍して思う、のだ。君と僕の違いは位置の違いなのだろうか。あるいは深度の違いなのだろうか。話してみると、似たところにいたね、と思えた経験も多い。ので。 ▼論理で情緒を見せたい。最近はよくそう思う。成せたことがないからだろう。現在までは、おおむね、言葉の匂いで情緒を描こうとしていた。言葉といつも一緒に在るがゆえに言葉の匂いとしてこびりついているもの。を、巧く活用することで、相手の感情を動かそうとしていた。愛している、という言葉が、甘美な場面に幾度となく即してきたから、甘美な匂いを持つように。理想や夢、というものが、輝くと同時に危険性も持っていて、だから、理想や夢という言葉からも、輝かしさと危険な匂いが感じられてしまうように。というような言葉周辺の気配を操って、言葉で情緒を描こうとしていた。でも、最近は、論理的側面を使ってみたい、と思っている。完成形は見通せていない。でも、論理的考察にこそ感激できる瞬間、って、稀にある。掘り下げていけばあるいは、と思うのだ。夢だ。 ▼波瀾万丈、紆余曲折、なストーリーで、感動させられる。なら、波乱万丈かつ紆余曲折な理路、で感動を導けたりはしないのかな、って思うのだ。ま、前提いかんかな、とは思う。前提の巧みな選択、も、策として考慮してはおこう。ちなみに、凄いぜ、という感嘆とは違う。違うつもりだ。論理が緻密で凄くて素敵、っていうのはある。あるが。 ▼被写体的な業務があった。掲載に写真が必要だったのだ。たいしたものではない。写真が嫌い、と感じる精神がよくわかっていないのかもなあ、って時おり感じる。何となく想像できるかな、というのはあるのだけど、これじゃないよなたぶん……、というのも、不明瞭に感じていたりはするのだ。微妙なズレ、の予感がある。勘違いした動機で納得してしまっている、というか。強いて言うなら自分もあまり好きじゃないのだけど、嫌い、と断言かつ明言する人の精神は実はこんなものではないのだよ――むしろ、別種のものだとすら言えるのだ、なんて言える雰囲気を感じるのだ。▼宣伝用の写真を撮っとけ、という指令があり、誰かに被写体を頼む羽目になってしまった。のだった。写真撮られるの好きじゃないんですー、という人は、わりと多いのかもね、と現段階では判断していて、だから、頼むのも比較的好みではない。が、諦める。切羽詰まっていたからだ。探す時間も根回すコネもほとんどなかった、と言える。結局、実直にお願いするしかないかあ、なんて思って諦めた。諦めて、決心したのだった。嘆息。が、意外とノリで乗り切れた。みんなで載っちゃえ、みたいな空気で押せたらしかった。助かった。が、それじゃ実力に繋がらないぞ、と自戒もしておく。結局オマエの功績じゃないだろ、とは感じるからだ。 ▼漫画に関してだけど、最新刊はあんまり買わない、ようにしているところがある。待たないと読めない、と「感じる」のが、あまり好きではないようだ。読んでないけど買ってないだけだぜ、というような判断が、何故か慰めになっている、らしい。幻想だろう。しかし、幻想であるにもかかわらず、効果を発揮している――影響を受けている、ということから、視線の前提や背景はどういった形質をしているのか、ということを、模索してみたい、と思っている。最新刊なのに買ってしまった。慰めより優先したかったようだ。 「今のままだと、もし答がわからなくても、きっと、あまり悔しくないと思うんだ。ヒントがあればさ、もしわからなかったときに、もの凄く悔しいと思うかも」 ▼極端に空気が冷えている。凍えそうで何か笑えた。状況や環境が厳しいと何故か世界と向き合っている気分になれる。恋は盲目、の変形だろうか。違うか。目の前の幸せには気付きにくい、の亜流だろう。世界と対峙する感覚は好きだ。人間と向き合うのとは全然違う。別に人間が嫌いなわけではない。むしろ「とても好きだ」とか言えるほうだろう。何でも好きだって言っとけばいいんじゃないの、というのは結構思っている。が、誠実と信用が欲しいからあまり言う気はない。誠実も信用も類縁ではあるだろう。何て言うか、詐欺の前提として信用を勝ち取ろう、というのはあんまりない。あんまりかよ、って思ったりもするけれど、考慮している時点で、まったくそんなつもりはない、と言うのは無効になっちゃうのでは、という危惧があったりもする、のだ。が、この論理を採用すると結構めんどうになりそうでもある。から、拒否しておこうかな。▼起床は午前5時。厳しい。 ▼隙が多い、と自己評価している。油断が多い。気を抜きすぎ、とも言える。だから、以前から練磨を考えていた。囲碁を始めたのはその一環だったりする。真剣勝負、を人生に置いてみよう、とか思っていたのである。真剣勝負は、油断すると、負ける。だから、敗北によって油断が浮き彫りになる。浮き彫りになれば、油断の理由もうまいこと見えてきて、直せたりするんではないかな、と期待したのだ。期待は、ま、特に見込み違いでもなかった。囲碁を初めてみて、油断癖を動かせたところは、いくらかあると思う。 ▼無論まだ「完璧」とは言いがたい。不備は少なくない。油断して「油断して」しまうことも多い。完璧は遠いなあ、とは感じる。が、微妙な修正が入っているのも、正直ちょこちょこ感じる、のだ。何て言うんだろう。間合いの取りかたが巧くなった、とでも言えば適切なんだろうか。囲碁では、攻め込んできた相手の石に向けて、防御を行う時、目の前には、壁を作らない。というか、駄目らしいな、と理解した。目の前に壁を作ると、まわりこまれた時、防衛が間に合わなくなるからだ。押されてしまうとしても、少し引いて防御を固めたほうが、隙が減り、結果として、危なげなく抑え込めるようになる。という構造を、ほかでも活かせるようになった、なんて言える。ウイニングイレブンのディフェンスですら、動きが変わったと思う。巧い人は最初からこうしていたのだな、とも思う。 ▼勤務を終えて池袋に向かった。囲碁で対戦するためだ。前から囲碁に凝っている。最近は将棋にも興味があって、解説書などを読んで、ほうほう、囲碁とはやっぱり核心部分がところどころ違っていて楽しいものだなあ、将棋だとこのあたりに要点があるから、こういう思考が存在しうるのだねえ、なんて感心していることも多い。楽しい。囲碁をいくらか理解したことで、打法や打点の有効性もまた、理解することができた。対象が何らかの構造を持つ限り、有効な動き、というのは、やはり存在してしまう、のだろう。理想に向かわないことができないのと――欠点に向かうことができないのと、同じだ。転換するのとは無論違う。負けるが勝ち、ということではなくて、負けるが勝ち、と言っても、やはり、勝ちは目指される、という条理である。負けるが負け、なんかで満足はできない。 ▼囲碁対戦は珍しく綺麗に勝利を収めることができた。ほんとうに珍しい。対戦相手はいつも通りカズ氏で、以前までは、ほとんど負けてばかりいたからだ。辛勝も多かった。現段階での勝率は三割程度だろう。修行の成果が出せたかな、とは思えた。最近は六路盤で練習していた。のが、功を奏したのだろう、と感じている。わかりやすく言うと、物凄く狭い盤に特化して練習していたのである。囲碁というのは、まわりに寄っていくのに合わせて、論理的かつ数学的な勝負に近づいてゆく。読み合いになっていくのだ。打つ場所が制限されるからだ。だから、最初の段階でここに打っておけば、相手が、こう打ってきても、あるいは、逆に打ってきても、対応できるぜ、という手を、探す勝負に近づく。数少ない手で、いかに「安全地点」に逃げ込めるか、を探してみる。というのが、たぶん巧くなったのだと思う。おそらく、精密に見れば隙じゃないと言える「隙」を見極められるようになった、のだろう。隙はあるけれど、ここは、たとえ攻められても、こちらから逆に追い込めば、逃げ切ってしまえるぞ、というのを、経験から、少し学んだ。のだ。 ▼何故か深夜に『高速カードバトル カードヒーロー』の対戦も少し行った。行う羽目になった、というか。残念そうに書いてみた。が、かなり楽しかったから「残念ながら」と言うのは実は嘘になるだろう。残念だけどカードヒーローは滅茶苦茶おもしろい。予測通りで、嬉しい。がっつり嵌まっている。嵌まるのは最近だと珍しい。囲碁に酷似した感触を感じていたりもする。脳を激しく揺さぶり、相手の思考を読み、想定外も想定して、最善手に見えるもの、を模索する、という行為が、快感すぎる。ただし、勝負には敗北してしまった。粘ったが全然敵わなかった。軍備が足りてないぜ、と感じる。戦略戦術の試行錯誤もまだまだだ。というのを、何とかしていかねば、とも思った。でも、意外とマシな勝負ができた、ということは、結構な満足に接続されている。対戦相手はコレクションをコンプリートしていたイネ氏で、すべてのカードを利用可能だった、ということを考えると、悪くない負けかただったよな、とは思える。この方向で伸ばしていこう。 ところが、こういったニュアンスは絶対に伝わらないものである。「危険はありません」と叫べば叫ぶほど、「危険だ」という意味に受け取られる。どの言語であっても、語意は、文法よりも優先されることは確実だ。 ▼言葉を味わうのって難しい。難しいぜ、って時おり思える。が、思える時、は、味わえている時、であって、味わえていない時、ではない。おかげで、対処するのも難しかったりする。できていない時に、全然できてないな――今頑張ろう、と思えるのなら、簡単に改善できる。が、できている時に、普段はできてないか――次頑張ろう、と思えても、改善、に繋げるのは、難しかったりするのだ。遠いからだ。でも、影響を与えられないわけでもあるまい、とも考えている。直接攻撃は届かないとしても、間接攻撃は届きうるだろう、からだ。構えを変更しておくことは可能だよな、とか最近は考えているのだ。元凶となる思想や理念を先んじて変えてしまえ、ということだ。環境要因に注視する行動科学に類似するかも。が、微妙に違うか、とも思う。より手前だろう。まずは「環境要因に目を向けることが可能になるような世界」を前提化せねば、とか言える。▼起床は午前8時。 |
[ 507] 反戦な家づくり なるほど橋下は懲戒に値する
[引用サイト] http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-475.html
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市民ら350人、橋下弁護士の懲戒請求へ 光市事件2007年12月16日 朝日新聞 大阪府知事選への立候補を表明した橋下徹弁護士が、99年に山口県光市で起きた母子殺害事件の被告弁護団の懲戒請求をテレビ番組で視聴者に呼びかけたことをめぐり、全国各地の市民ら約350人が17日、橋下氏の懲戒処分を所属先の大阪弁護士会に請求する。「刑事弁護の正当性をおとしめたことは、弁護士の品位を失うべき非行だ」と訴える。発言に対しては、被告弁護団のメンバーが1人300万円の損害賠償訴訟も広島地裁に起こしている。 懲戒請求するのは京阪神を中心とした11都府県の会社員や主婦、大学教授ら350人余り。刑事裁判で無罪が確定した冤罪被害者もいる。 橋下氏は、5月27日に大阪の読売テレビが放送した「たかじんのそこまで言って委員会」で、広島高裁の差し戻し控訴審で殺人などの罪に問われている元少年の弁護団の主張が一、二審から変遷し、殺意や強姦(ごうかん)目的を否認したことを批判。「許せないって思うんだったら、弁護士会に懲戒請求をかけてもらいたい」などと発言した。 17日に提出される懲戒請求書によると、元少年の主張を弁護団が擁護することは「刑事弁護人として当然の行為」と指摘。発言は弁護士法で定める懲戒理由の「品位を失うべき非行」にあたるとしている。 弁護士への懲戒請求は、弁護士法で「何人もできる」と定められている。請求を受けた弁護士会が「懲戒相当」と判断すれば、業務停止や除名などの処分を出す。 橋下氏は、元少年の弁護団のうち4人が9月に起こした損害賠償訴訟での答弁書で「発言に違法性はない。懲戒請求は市民の自発的意思だ」と反論した。15日、朝日新聞の取材に法律事務所を通じて「(懲戒請求されれば)弁護士会の判断ですので、手続きに従います」とコメントした。 なるほど。この手があった。ということは、「日本人による買春は中国へのODA(政府開発援助)みたいなもの」という発言も、2万%「品位を失うべき非行」にあたると思われる。大阪府知事選候補予定者、橋下徹氏の足元揺らす「ODA発言」 2007/12/14 JANJAN 弁護士法 56条には弁護士及び弁護士法人は、この法律又は所属弁護士会若しくは日本弁護士連合会の会則に違反し、所属弁護士会の秩序又は信用を害し、その他職務の内外を問わずその品位を失うべき非行があつたときは、懲戒を受ける。と書いてある。売春をODAと言いなすことは、どう考えても、「その他職務の内外を問わずその品位を失うべき非行」以外の何ものでもない。この品位のかけらもない橋下某は、自分がテレビで煽動した懲戒請求は「市民の自発的意思だ」と言うくせに、自分が懲戒されそうになったら、こんな姑息なことを言っている。懲戒請求に対し橋下氏は「特定の弁護士が主導して府知事選への出馬を表明した時期に懲戒請求したのなら、私の政治活動に対する重大な挑戦であり、刑事弁護人の正義のみを絶対視する狂信的な行為」とコメントした。(MSN産経ニュース)同じ論理で言うならば、「特定の弁護士(橋下)が主導して行った、元少年の弁護団への懲戒請求は、警察と検察の正義のみを絶対視する狂信的な行為」 ということだ。論理的に同じ行為をしても、自分がしたことは正義で、自分に矛先が向けられると狂信的な行為、ということらしい。買春=ODA発言もそうだが、どうやって司法試験を通ったのかと思うぐらい、論理的な思考ができない人間のようだ。と言うか、自分のわがままな思いつきに夢中で、論理なぞどこかに放り投げてしまったのだろう。この手の人間が、生活に密着した地方自治体の長にになるなんて、ぜ〜〜〜たい!にあってはならないこと。まして、私の地元だ。 最悪だ。ちなみに、今回の橋下への懲戒請求については、世論調査ネット(旧リアヨロ)で、投票されている。興味のある方は、投票に行ってみてはいかが。(アドレス修正済み)「橋下徹弁護士を懲戒請求へ」「橋下弁護士の府知事選出馬について」それと、もう読んだ人が多いだろうけど、東京のきっこさんから大阪府民への檄大阪をどげんかせんといかん! To Page Top お説ごもっとも。 橋下氏の発言はダブルスタンダードどころか、マルチスタンダードであり、論理とは程遠い位置にある。更には「やっぱりやめた」を何回言っているか?氏が何を言おうとしているのかと真面目に聞こうと思っている人は氏のブログを見てからにしたほうがいい。 私はてっきり橋下弁護士はすでに自公に推薦されたと思っていたら、実際は推薦の方向で調整中だったんだね。まあ、自公の推薦なしでも、無所属として立候補するつもりだろう。 橋下氏に340人が「逆」懲戒請求 光母子殺害めぐり 大阪府知事選への立候補を表明している弁護士の橋下徹氏(38)が、平成11年に起きた山口県光市の母子殺害事件の裁判をめぐり、被告弁護団の懲戒請求をテレビ番組で視聴者に呼びかけたことに対し、全国の市民ら約... 「弱者が何故自民党を支持するか」の連載記事には、かなりの数のアクセスをいただきました。 しかし、特に昨日の結論部分が、極めて貧弱であったことは、誠に申し訳ないことと思います。 実は2週間ほど前から持病が悪化しており、記事を書く気力がなかなか湧いてこない... 木の家プロデュース 明月社世界遺産・大峯山の木で家を建てる家を建てる人のために私ができること<ブログ仲間 順不同>辺野古から緊急情報基地建設阻止おおかな通信雑談日記(徒然なるままに、。)「ヘンリー・オーツの独り言」カナダde日本語薫のハムニダ日記るるどの覚書今日の喜怒哀楽ザ・のじじズムきまぐれな日々エクソダス2005《脱米救国》国民運動らんきーブログ飛語宇理日記BLOG BLUESわんばらんすもーちゃんの部屋喜八ログことば・その周辺ゆうやけ noteみやっちBlog憧れの風嗚呼、負け犬の遠吠え日記ミクロネシアの小さな島・ヤップよりカルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの虚業日記晴耕雨読権力に迎合したマスコミ人を忘れるな!詩人PIKKIのひとこと日記&詩大津留公彦のブログ2晴天とら日和秋扇巵言フーテンのだいだい憂鬱な水滸伝教育の原点を考えるしんくにゃ。のかってにしんくたんく〜なごなぐ雑記管理者ページ |
[ 508] 「ノーベル賞に値する」--S・ウォズニアック氏がOLPCを称賛:ニュース - CNET Japan
[引用サイト] http://japan.cnet.com/news/biz/story/0,2000056020,20368681,00.htm
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Gates氏は、「確かに、コンピュータはすばらしい」と述べ、「安価なコンピュータがあれば助かるだろう。しかし、最貧困層の人々を見た場合、彼らがいま最も必要としているのはコンピュータではない」と語った。 トラックバック一覧からリンクされているウェブページはこの記事にリンクしている第三者が作成したものです。内容や安全性について当社では一切保証できませんのでご注意下さい。 ※サービス名をクリックするとこのページをブックマークできます。また、人数をクリックするとブックマークしている人やコメントを一覧できます。なお、サービスによってはログインが必要な場合があります。 Yahoo!メールのヘッダが誤表記される不具合が、4カ月に渡って発生していた。原因はプログラムのバグで、受信メールをそのまま返信した場合、意図しない相手にメールが届く可能性がある。 日本最大のSNS「mixi」のミッションは、“コミュニケーションのインフラ”になることだ。18歳以上の日本人全員がアカウントを持ち、電話やメールのように利用する--こんな姿に近づくためにベータ版のまま進化し続けている。 「位置情報に付随して表示するマッチング広告」を武器に大学在学中に起業したシリウステクノロジーズ代表取締役社長の宮澤弦氏に聞いた。 「ひろゆき」こと西村博之氏へのインタビュー後編。ニコニコ動画の誕生秘話や今後の展開について聞くうちに、話は日本が目指すべき方向へと広がった。 パイオニアは主力商品であるプラズマディスプレイパネルの生産から撤退することを発表した。市場関係者の評価は前向きで、中期的には株価も上昇軌道に乗ることが期待できそうだ。 企業のモバイルサイトへのアクセス状況から、「使われて」いる端末を探る連載。今回はFlashやおサイフケータイ、デコメールなどのHTMLメール対応端末がどの程度使われているのかを調べた。 昨今の日本の有力家電メーカーの動きを見ると、今、改めて「日本にとってのモノづくり」とはなにかを問う必要があると感じる。その源泉は特定の職人や遺産的な過去の栄華ではなく、もっと別のものだろう。 インスタントメッセンジャーの認知や利用状況などを調査したところ、認知度、利用意向ともに7割を超えるという結果が出た。しかし一方では、携帯電話メールのほうが便利であるという回答も7割を超えるという結果となった。 シニア層のコミュニティーサイト利用について調査したところ、ブログやQ&Aコミュニティなどシンプルな機能のサービスに人気が集まった。しかし、コミュニティーサイトの利用は全体の約3割に留まっており、若年層の半分以下という状況であることが分かった。 スイスで開催された世界経済フォーラムで、B・ゲイツ氏は「創造的資本主義」を訴えるスピーチを行った。裕福な国々の企業は発展途上国を支援すべきだというものだが、それは世界にとって本当にプラスになるのだろうか? 米マイクロソフトが、再び米ヤフーに買収を持ちかけている。ヤフーの主事業領域は、マイクロソフトのOSやアプリケーションなどといった主事業領域ではないにもかかわらず、巨額の買収額を提示している。それはなぜなのか。 シャープが今春にも中国市場に携帯電話を投入すると、日本のメディアが報じた。上海や北京、深センなど高所得地域においては、中国でも利用できるように改造したソフトバンクモバイルの携帯電話が販売されていて、特にシャープ製の電話が人気なのである。 「画質」でも「記録メディア」でも、さらには「保存方法」でも選べる今シーズンのビデオカメラ。その機能と コンパクトサイズと手軽さで人気を博したDVDモデルから一転、HDDとメモリースティックを記録メディアに採用 ソニーから登場したアナログレコードプレーヤーが注目を集めている。USB端子搭載で、PCへの取り込みも行え |
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