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[ 1524] 美潮の部屋もびしっとしめる : donna : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
[引用サイト]  http://www.yomiuri.co.jp/donna/do_051228.htm

今年も本当に残すところあとわずか。一年を振り返ってみると、とにかく「初めて」づくしの年だったような気がします。大きなところでは、もちろん初めての結婚(笑)、そして、母親の死という経験を致しました。また、4月には生まれて初めて声帯炎にかかり一か月間も声が出なくなり、8月には転んで(と推測される)顔面にケガをするなど、毎日の生放送を抱える身としては、半分は自業自得とはいえ、試練も続いた年でした。どうでもいいところでは、天皇賞で初の万馬券をゲットし、さらに、クリスマスの25日に、人生初めてのパチンコに挑み、大当たりするなど、ギャンブルに目覚めてしまった年ともなりました。
でも、いくつになっても、新たな経験が出来るというのはうれしいことだな、と今年を振り返って思っています。来年も常に新しい扉を開いていくつもりで頑張りますので、どうぞよろしくお願い致します。皆様、よいお年をお迎えください。きょう28日から、今年最後の「初めて」、新婚旅行に行って参ります!
今年最後を飾る美潮の部屋は、「アストロ球団」から峠球四郎役の金児憲史さんをお迎えしました。公開中の映画「男たちの大和」に出演、一月のテレビ朝日の時代劇「風林火山」では高坂弾正役を演じるなど、のりにのっている金児さんにびしっと今年をしめていただきたいと思っております。
とうげ・きゅうしろう 四番目の超人でありながら、アストロ球団を抹殺するためにビクトリー球団を結成。アストロ球団にデスマッチ野球を仕掛ける。
金児 なーにをいってるんですか(笑)。でも楽しかったですね。皆とのからみや、秘蔵ビデオが笑いました。久々に会ったヤツとは、遊ぶ約束したりしてね。うん。楽しかった。
美潮 放送は終わってしまいましたが、そもそも、初めて「アストロ球団」の原作を読んだ時の感想はどんなものでしたか。
金児 熱を感じました。あり得ないというよりも、素晴らしいなと思いました。あれだけの作品をイメージして、描いて、世に出て皆に読まれるというのは素晴らしいことですよね。70年代独特の熱さ、というのも、僕は好きなんで違和感はありませんでした。戦国ものとか歴史ものが好きなんですが、そこに通じるものがあるんですよ。表面のお話はあり得ないことの連続だけれど、伝えたいことはそこにあるのではなく、人間ドラマにあるんだ、ということを感じました。多分、野球でなくてもよかったんでしょうしね。殺し合いとか色々ありますけれど(笑)、本当は、人間の成長する過程を描いている作品だなと思うんです。
金児 いや、まだ遠いですね。でも、理想とする男性像です。なんていうか、男っぽいじゃないですか。しんちゃんのシーンなんか、、まさにそうですけれど、子供相手に、大事なことを今言うのでなく、「あと10年したら、自分に今やられた悔しさをバネにもっといい男になっているはずだ」と、先を見て接している。そのように先を見て人と接することができるのはすごいな、と。僕はそんなことできないし、球四郎から影響を受けていかないと行けない部分だなと思いました。
美潮 メンバーの中では金児さんはちゃんと野球をやるシーンが多かった方だと思うんですが(笑)、アクションでの苦労などはありましたか?
金児 ローラースケートで滑るシーンは大変でした。僕、光GENJI世代なんですよ。だから(バロン役の)大沢樹生さんに会えてすごくうれしかったんです、実は(笑)。それで、小学校のころはローラースケート履いて光GENJIのマネとかしていたんですよ。
金児 そんな(笑)、僕にだってあるんですよ、小さいころが(笑)。いきなりこうなったわけじゃないんですから。で、ローラースケートをすると言われたんで「大丈夫ですよ」と言っていたんです。一応練習もしてね。ところが、現場に行ってびっくりですよ。ローラースケートにストッパーがなかった!これには参りましたね。止まれないし滑り出しもうまくいかない。一番苦労したアクションですね。あとは、下駄。普段履きませんからね。国会議事堂の前で「下駄でターンしてくれ」と言われて、難しかった。
美潮 インボイス西武ドームでの合宿では、同室が「冷房魔」の岡田太郎さんで大変だったそうですが?(注・岡田氏は室温設定を18度にすることで知られる)
金児 あははは。いや、確かに北極とか言われてましたけれど、それほど気にならなかったですね。僕、たまに夜中に目が覚めるとぷちっと消してましたから。太郎さん、寝たらわからないですから(笑)。それに、僕は酒飲むんで。お酒飲むと暖かくなるじゃないですか。そうするとちょうどいいんで、うまくいってました。
美潮 ビクトリー球団は、特異なキャラが揃っていましたよね。特攻隊の生き残りの氏家慎次郎(演じたのはデビット伊東さん)とか、どう思いましたか。
金児 氏家は、本当に完全燃焼した唯一の人間ではないですかね。最後に一球投げて、力尽きてしまう。それまで、憎しみとか特攻できなかった悔しさが若さを保っていたわけで、それで燃え尽きておじいちゃんになってしまうわけですから。
金児 あんな奇抜な格好しているけれど、男気がある。おねえキャラが、いきなり男っぽくなるけれど、言うことはきっちり筋が通っている。ビクトリーには、癖がない人間はいないんですけれど、その中でも一番癖があったんじゃないですかね。球四郎との関係もね。多分何か、バロンが球四郎を認めるような行動を球四郎がしたんでしょうね。そうでないと、あんなプライドが高いバロンが球四郎についてくるわけがない。そのあたりをもう少し深く掘り下げればよかったかもしれませんね。
美潮 さて、話変わって公開中の「男たちの大和」、金児さんの役柄は、球四郎より怖いです。今の金児さんとは顔つきが違う。
金児 そうですかね?でも顔が違うというのはよく言われます。あれは、厳しくしないといけない場面でしたから。他の登場人物が特別年少兵に優しい人が多い中、僕の役だけが厳しい。あの作品の中で唯一、いかに大和の中の生活が厳しいかを表す場面だと思うんです。窓ひとつ閉め忘れただけで大変な罰則があるという、その厳しい世界を描きたかったので、気を使いました。下手に甘く演じてしまったら、大和自体がぬるくなってしまうかもしれないという責任感をもってやりました。一手に厳しさを引き受けてね。その流れでそのまま球四郎役をやりにいったんですよ(笑)。
金児 所作とか、不安は色々ありました。何しろ引き出しの数が少ないんで。でも、時代劇は大好き。北大路欣也さんともご一緒できてものすごく勉強になりました。これからもやっていきたいです。
金児 骨っぽい、男っぽいじゃないですか。僕はもともと歴史小説が好きで、山岡壮八さんの徳川家康24巻とか全部読みましたし、司馬遼太郎さんも全部読んでいます。歴史はこれから勉強していかなくてはいけない、これから生きていく上での教科書みたいに思っているんですよ。男の生き様、男の教科書。一番好きなのは戦国時代で、好きな武将は加藤清正。あと、徳川家康の家臣の本多忠勝とか井伊直政とか榊原康正。現場で泥臭く戦って勝ち取っていく人たちが好きなんです。その男の生き様がね。
美潮 アストロも男の生き様を描いたという点では確かに時代劇と重なりますね。最後にもう一度アストロに話を戻しますが、もし続編があるとしたら、どんな作品であってほしいですか?
金児 うーん。負けるところから始まるような話ですかね。みんな、一回挫折してほしいですね。打ち砕かれて、それによってひねくれたやつが出て来てもいい。そういうところから、もう一度頑張っていく再生の物語がいいと思う。弱さから始まって、強さを勝ち取っていくストーリーが魅力的だと思う。今は立派な人でも初めから立派なわけではなく、もがいて挫折して、それでも頑張ったから今があるわけじゃないですか。そういうもがいているところってドラマでないと見せられないのだから、そういう作品だったら面白いと思っています。
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[ 1525] ゲーム, プレイヤ, ワールド : ゲームたらしめるものの核心を探る
[引用サイト]  http://www.jesperjuul.net/text/gameplayerworld_jp/

この論文はゲームの定義を提唱するものである。私は古典的ゲームモデルについて解説するが、これはゲームなるものが成立するのに必要かつ十分な条件となる六つの特徴をリスト化したものである。本定義はゲームがメディア間を移動する (transmedial) ものであること、つまりゲームという単一のメディアは存在せず、むしろ多種のメディアが存在するのであり、それぞれが固有の長所を持っているということを明らかにする。コンピュータは単にもっとも新しく出現したゲームメディアであるに過ぎない。コンピュータゲーム1はそれゆえより広範なゲーム分野の一部ということになるが、多くのケースで古典的ゲームモデルを超える進化をみせている。
なぜコンピュータとゲームには親和性があるのだろうか? なぜ私たちは、コンピュータでゲームをプレイするのだろうか? 近代的なメディアとしては、ほかにも電話、テレビジョン、電子レンジ、自動車、飛行機といったものもあるわけだが、私たちはそのどれよりも、コンピュータでゲームをプレイする。コンピュータはゲームを実現可能にするものとして役立っているように思われる。印刷出版、映画、テレビジョンの技術がストーリテリングの普及を促したのとかなり似通った方法で、ゲームを支え、普及を促している。しかしそういった親和性をどのようにして説明すればよいのだろうか?
私がここで主張したいのは、古典的ゲームモデルの存在である。数千年にわたって不変だったと思われる、ゲームを創作するための標準的モデルのことだ。コンピュータゲームは、黎明期にはほとんど例外なく古典的ゲームモデルと結びついていたわけだが、その後は非電子的な先祖たちから進化を遂げてきた。この進化には幾通りかの方法がある。
これまでにもゲームを定義しようという試みは数多くあった。しかし私が目指すのは、コンピュータゲームとその他のゲームを関連づけているものは何なのか、そしてゲーム分野のボーダーラインでは何が起きるのか、といったことを説明できる定義を創出することなのである。とはいうものの、この定義はどのような姿をとるべきなのだろうか? ゲーム自体の性質 (ゲーム開発者がデザインした芸術品) について、私たちは多分ふたつのことを理解したがっている。自分はプレイヤとしてどのようにゲームと付き合っているのか、そしてプレイといわば仕事との間にどのような関連があるのか、である。これを踏まえて、優れたゲームの定義は次の三つの事項を説明するものと仮定しよう。1) ゲームルールが設定するシステムの種類 (ゲーム)。2) ゲームとゲームプレイヤの関係 (プレイヤ)。3) ゲームプレイと外界の関係 (ワールド)。2
ゲームの定義が有効かどうかを試すもっともシンプルな方法は、1978年にBernard Suitsが実際やってみせたように、きわめて広範囲あるいは狭範囲にテストしてみることだ。定義に先駆けてそういうテストをセットすることにして、次のように仮定する。『クエイクIII』、『エバークエスト』、チェッカ、チェス、サッカー、テニス、『ハート』、ソリテア、ピンボールはゲームであり、『シムズ』や『シムシティ』といった無期限シミュレーションゲーム、ギャンブル、完全確率ゲームはボーダーライン・ケースであり、交通、戦争、ハイパーテキスト・フィクション、フリーフォームな遊び、薔薇の花輪づくりは非ゲームである。定義は一連のゲームたちの内側に何があり、外側に何があるのかを教えることができるものでなければならけない。そしてそれだけでなく、定義のボーダーラインに位置するものがあるのはなぜなのか、どうしてなのかも詳しく説明できなければならない。ある特定のゲームがなぜボーダーライン・ケースになるのか理解できてさえいれば、ボーダーライン・ケースの存在が定義に支障をきたすことはない。
私がここで適用しようとしている手法は、過去の七つのゲームの定義について検討し、それらの類似を拾い上げ、目下の目的のためにはどのような修正と咀嚼が必要であるかを指摘する、というものだ。だが過去の定義の見直しにかかる前に、各定義がゲームの同じ側面について述べようとしているとは限らない、ということには留意しておかなければなるまい。ゲームそれ自体のみに焦点を当てたものもあれば、ゲームをプレイするという行動のみに焦点を当てたものもある。そうでなくても、事物にはさまざまな表現の仕方がありうるものだ。たとえば、ある著者がゴールに言及し、もうひとりの著者が衝突に言及している場合、両者の言葉は同じ尺度に変換できる。衝突の概念には (両立することのない) ゴールがともなう。いっぽうゴールの概念には、ゴールまで到達できない可能性と、それゆえの衝突がともなう。しかしこの話は後回しにするとして、のちほどカテゴライズすることになる七つのゲームの定義を、素直に列挙させていただこう:
[前略]「普通の」生活の外側に「深刻でない」ものとしてきわめて自覚的に存在し、しかし同時にプレイヤを劇的かつ徹底的に惹きつける自由な行動。物質的なものへの興味とは結びつかない行動であり、それによって得られる収益はない。決定されたルールと秩序だったマナーに従って、適切に制限された時間と空間において進行する。社会集団の形成を促進するが、この集団には秘密を張り巡らせる傾向があり、仮装などの手段によって一般世界との差異を強調しがちである。
ゲームをプレイするということは、ルールで許可された手段だけを用いて、特定の事態を引き起こすよう方向付けられた行動に従事するということである。ルールはあまり効率の良くない手段に好意的であり、効率の良すぎる手段の使用は禁止するもので、そのような行動を可能にするという理由だけで受け入れられる。
もっとも基本的なレベルでいえば、ゲームとは、手順とルールによって結果が釣り合わないよう制限されている状態で、勢力どうしが敵対するという、自主制御システムの実行であると定義できる。
私は四つの共通要素を認知している。表現 [「現実の一部を主観的に表現する閉じたフォーマルなシステム」]、相互作用、衝突、そして安全性 [「そのゲームがモデルにした状況ほどゲーム結果が過酷になることはない」]。
ゲームとは、達成すべき目標およびそこに到達するために許された手段を規定した一連のルールにより構成される、娯楽の形式である。
ゲームとは、プレイヤがルールで規定された人工的な衝突に従事し、数値化可能な結果に終わるシステムである。
これらの定義にはおそらく相違点よりも共通点のほうが多いだろう。三つの異なるレベルからゲームを考察しようというアイデアに立ち戻れば、個々の定義のポイントは記述内容に従って整理することができる。例を挙げると、「ルール」という言葉はフォーマルなシステムとしてゲームを説明している。ゲームが「普通の生活の外側」にあるというのは、ゲームと外界の関係についての説明だ。ただしゲームが「達成すべき目標」を持つというのは、ゲームがフォーマルなシステムであることおよびゲームとプレイヤの関係についての説明である。「ゴール」と「衝突」が同じ概念の異なる表現方法であると捉えるなら、これら定義のすべてのポイントを10項目に集約することが可能となる3:
ゲームにおけるフィクションの問題は厄介な代物である。考察するゲームしだいでかなり異なってくるからだ。さしあたってゲームはフィクションの成分を持つこともあるが、それはゲーム全般の共通点ではないと述べておけば十分だろう。
プレイヤとゲームの関係をより明確にするために、ゴールの概念を三つの異なる要素に分離することを、ここで提案したい。すなわち 1) 起こりうる結果に対する価値の付与 (valorization)、つまり結果にはポジティブに説明されるものもあれば、ネガティブに説明されるものもあるということ。2) プレイヤの努力、つまりプレイヤとなる人は何かを行う必要があるということ。3) 結果の状態に対するプレイヤの担保。プレイヤとなる人は、ゲームに勝てば嬉しくなり、負ければ惨めな思いをするという決まりごとに同意している。これはゲーム契約と呼ばれるものの一部で、不思議なことに完全確率ゲームにおいてさえも発生する。
Roger Cailloisの定義は、ゲームとは時間と空間の両面において外界から分離された非生産的なものである、としている。最初の特徴に反する例を探し出すのはきわめて容易であって、単に手紙を介してチェスをプレイすればよい。この場合、ゲームの期間がゲーム以外の生活時間に被さるという意味でも、日々の仕事の合間に次の手を考えることができるという意味でも、ゲームは日常生活に重なることになる。ネットベースの戦略ゲームも同様で、数ヶ月から場合によっては数年にも及ぶ広がりをみせるものも多い。第二の特徴、すなわち非生産的であるという点については、生産の意味するところが、物質的な商品の生産以外にまで及んでいるのかどうか疑わしい。
Cailloisの提唱に沿うと、ギャンブルでさえ何も生産しないということになってしまう。ギャンブルは実際のところ巨大産業として存在するわけだから、経済学の観点からいってこれには問題がある。どのようなゲームでも結末が賭けの対象になりうること4、またゲームをプレイすることで確実に生計を立てている人が大勢いることには、注意を払いたい。
「ありふれた生活」の空間でプレイされうるライブアクション型のロールプレイング・ゲームでは、分離が特殊な問題となる。このケースでは、プレイに参加している人とそうでない人の間にどのような相互作用が許されているのか、明確な説明がなされなければならない。5
話を一歩戻そう。分離の概念とゲームが非生産的であるとする概念は、ふたつの観点から見ると非常によく似たものであることが分かる。両者とも 1) ゲームと外界は相互に作用することのできる (そして許される) ものであると規定しており、2) 完全な境界線は明らかに存在せず、その領域は毎度の取り決めによって曖昧に定められる。
Cailloisは自由意思でプレイされないゲームはゲームではないと主張しているわけだが、それならゲームとゲームプレイは区別されなければならないことになる。だがプレイで金銭を稼ぐ人が出てきたからといって、『クエイクIII』全本が突然ゲームであることを止めたりはしない。これに限らずどんなゲームも、賭博やプロ名人のターゲットになる可能性を秘めているわけだから、対価交渉の可能な結末 (negotiable consequences) がともなう活動であることを、ゲームの特徴としたい。ある特定のゲームプレイでは、結末への割り当ては固定されているかもしれない。しかし割り当ては一回のプレイごとに任意に変更できるものなので、ゲームはやはりゲームとして存在することになる。結末が対価交渉の可能なものであるときに、ゲームは外界との分離の度合いを測定しうるものとなる。
ルール: ゲームはルールに基づく。2) 可変かつ数値化可能な結果: ゲームはさまざまに変化しうる数値化可能な結果を持つ。3) 起こりうる結果に課せられる評価:
見込まれるゲーム結果のそれぞれに異なる評価が割り当てられるということ。ポジティブな評価もあればネガティブな評価もある。4) プレイヤの努力: プレイヤは結果に影響を及ぼすべく努力を傾けるということ。(ゲームはプレイヤの手腕を問う、とも言い換えられる。) 5) プレイヤと結果の繋がり: ポジティブな結果が発生すればプレイヤは「幸せな」勝者となり、ネガティブな結果が発生すれば「惨めな」敗者になる、という意味で、プレイヤは結果と繋がっているということ。6) 対価交渉の可能な結末: 同一のゲーム [ルールセット] は、現実世界への影響の有無と関係なくプレイすることができる。
ゲームはルールに基づいたフォーマルなシステムで、可変かつ数値化可能な結果をともなう。異なる結果には異なる評価が割り当てられ、プレイヤは結果に影響を及ぼすべく努力を傾ける。プレイヤは結果との繋がりを感じ、行動の結末には任意性かつ対価交渉の可能性がある。
3はシステムでの起こりうる結果――プレイヤが目指さなければならないゴール――に割り当てられる評価を説明している。
(特徴4はプレイヤの入力がゲームシステムに影響する事実およびプレイヤが何かを行うという事実の両方を説明。)
ゲームにはルールがある。6 ゲームのルールは、コンピュータにプログラムされうるかどうかを十分明確にして規定されなければならない。もしくはプレイのたびにルールについて議論しなくてすむことを、十分明確にして規定されなければならない。じっさい電子的でないゲームをプレイするという行動には、ゲームルールから不明瞭なところを取り除いていく努力までが含まれている。ゲームのルールに見解の不一致があれば、それが解消されるまでゲームはお預けになる。売り物にされるゲームについては、ルールに曖昧なところがないかどうかを開発者が (できるだけ) 確認してきた。しかし売り物にされないゲームについては? 電子的でない「民芸」(つまり売り物ではない) ゲームもまた、曖昧さをなくす方向に傾斜しがちだ。プレイに知恵が要らなくなるからではなく、ルールの維持に知恵が要らなくなるからである。このことはゲームとコンピュータの親和性をある程度説明し、また数千年前の非電子的なゲームが、容易にコンピュータプログラムへと実装できるという事実をも説明する。曖昧さをなくす方向への傾斜によって、ゲームはプログラミング言語へと実装できるまでに熟成されたのだ。
コンピュータサイエンスの概念を借りていえば、あらゆるゲームのルールはソフトウェアの一部分に相当する。実際にプレイするためにはハードウェアが必要となるわけだが、ゲームにおけるハードウェアはコンピュータであっても、機械装置であっても、物理法則であっても、さらには人間の頭脳であっても構わない。
ゲームなるものが機能するためには、ゲームのルールによって起こりうる結果に差異をもたらさなければならない。これだけなら非常に簡潔明瞭だが、ゲームがゲーム行動として機能するためには、さらにプレイヤのスキルとも適合していなければならない。チク・タク・ツー・ゲームを例にこれを検討してみよう。
これはチク・タク・ツーの一般的な性質である。相手が中央から先手を指してくるとき、自分の第一手は必ず角に指さなければならない。それ以外の手だと合理的な判断ができる相手には負ける。7
このことは付随的に、なぜチク・タク・ツーが子供向けのゲームであるかも説明しているし、それはまたゲームに本来備わっているものの発見にも繋がる。チク・タク・ツーが子供にとって面白くあり続けるのは、その思考力でならまだ選択の幅にやり甲斐を見出せるからである。しかしひとたび原理が分かれば、何度プレイしても引き分けで終わるようになってしまう。結果が変化しうるかどうかは、誰がプレイするかによる。つまり、いつも引き分けになる場合や、熟練者が初心者に全力で挑んだりするような場合には、まっとうにゲーム行動として機能していないわけである。
結果が変化しうることを約束するためのフィーチャを提供するゲームは多い。たとえば囲碁やゴルフ、あるいは『鉄拳』のような格闘ゲームでも、スキル格差を埋めるために、プレイヤにハンディキャップを負わせることができる。一部のレーシングゲームにも、プレイヤ間のスキル格差を埋めるためのごまかしがあることは間違いない。『グランツーリスモ3』では、プレイヤがレーストラックにおいて先頭車両を追う立場にあれば、先頭車両よりもスピードが出るように自動調整される。こうして追い上げできるようにしているのである。
さらにいえば、プレイヤ自身の馬鹿げた振舞いによって、結果に不確実性が生じることもある――最高の『鉄拳』プレイヤでも、やや集中力を欠いたプレイをするかもしれない。最高のレースゲーム・プレイヤでも、のろのろ走ったり逆走したりするかもしれない。最高のチェスプレイヤでも、大胆きわまる戦略を試すかもしれない。これはプレイヤ組織化臨界状態 (player-organized criticality) とでも呼ぶべきものである――プレイヤはルールを維持しようとするのと同様に、またゲーム結果が変化しうるという約束をも維持しようとするかもしれないわけである。
最後に、結果が数値化可能であるということは、ゲームの結果について議論の余地がないということを意味する。『パックマン』のゴールが「華麗に動きまわること」よりも、高得点を獲得すること8であるように。
参加者が結果に同意しないようなゲームのプレイにはかなり問題があるので、この件はゲームのルールが曖昧さに対するのと同じ道筋を辿ることになる。
これは単純に、ゲームの起こりうる結果のなかに、他より良いものがあるということである。マルチプレイヤのゲームでは通常、ポシティブな結果を求めて対立する立場が各プレイヤに割り当てられる (これがゲームに衝突を生み出す)。
どのようなゲーム結果にどのような評価が下るのかは、さまざまな手段で示されうる。外箱の煽り文句 (「地球を守れ」とか) で示されているかもしれない。ゲームの説明書に記載されているかもしれない。あるアクションが他より高い得点を出すという事実や、その場所が何かを進展させたり起こしたりする一手段であるというだけの利点によって知らされるかもしれない。あるいは設定によって暗示されるかもしれない――敵意を持ったモンスタの攻撃に晒されることは、ふつうプレイヤが己を守らなければならないことを意味している。
ポジティブな結果は、ネガティブな結果より到達しにくい傾向がある――このことがゲームをやりがいのあるものにしている。ゴールに到達するほうが到達しないより簡単なゲームは、それほどプレイされないだろう。
プレイヤの努力とは、ゲームが手腕を問うものであること、あるいはゲームが衝突を含むものであること、あるいはゲームが「インタラクティブである」ことを、別の言葉で述べたものである。プレイヤの行動がゲームの状況および結果に影響を与えうることは、(完全確率ゲームをのぞく) あらかたのゲームにとって、ルールの一部となっている。プレイ結果の責任は、ゲームにエネルギーを費やした人に (ある程度) 負わされることになる。そのためプレイヤの努力傾注から、プレイヤと結果の結びつきが生じる傾向がある。
プレイヤと結果の繋がりとは、ゲーム行動の心理学的な特徴であり、プレイヤが結果のある側面と繋がることで発生する約束ごとがあるということである。プレイヤは勝利すれば本当に嬉しく思うかもしれないし、敗北すれば本当に惨めに思うかもしれない。不思議なことに、このことはプレイヤの努力とだけ関係しているわけではない。完全確率ゲームに勝ったときでも、プレイヤは嬉しく感じることがあるのである。
現実世界への影響を任意に割り当てることができるという事実は、ゲームを特徴づけるものである。実際の割り当てはプレイごと、場所ごと、対戦相手ごとに取り決められうる。そのために、普通遊びでしかやらないゲームの結果を賭けの対象にできたり、その一方でラスベガスのカジノに入って賭博抜きでプレイすることはできなかったりするのである。
プレイヤがゲームに負け、そのことによって不快な結末に直面する場合、取り決められた結果に従うことは名誉の問題となる。ゲームの実際運用とゲーム結果は違うものであるということを、ここで強調しておいたほうがいいだろう。ゲームの結末を対価交渉可能なものにする唯一の方法は、ゲームのプレイを圧倒的に無害なものにすることであり、そのために必要な運用と手段を用意することである。本物の武具が関わってくるゲームには、対価交渉の余地がない結末になるおそれが強くともなう。とりわけスポーツにおいては怪我が多発し、死亡事故が起きることさえあるわけだから、これは本質的な論点である。ボクシングやモータースポーツといった一部のスポーツでは、危険であるという事実もまた魅力のひとつになっていることは、ほぼ間違いない。とはいえこうしたゲームを扱うさいにも、怪我を回避すべきであるということはやはり考慮される。もしル・マンが安全対策を怠ったりすれば、一般市民の怒りを買うことになるだろう。
しかしあらゆるゲームには、公に認められた選択の余地なき結末が、それでもなお存在する。プレイヤに時間とエネルギをかけさせることがそうだし、もっと顕著なものは、プレイヤに悲喜を味あわせることでプライドを傷つけたり高めたりすることになりうるという、ポイント5で説明した繋がりである。ただし繰り返しになるが、これはある種の合意に基づく制限ができあがっているときだけのものだ。そうでないと、過度に不機嫌になる (往生際が悪くなる)、過度に鼻にかける、分が悪くなるとさっさと逃げ出すなど、きわめて分かりやすい逸脱行為に走りかねないからである。他のプレイヤの揶揄や挑発にいたっては、どの程度までなら許されるという不変の基準が存在していない。実際のところ、このような理想は間断なく破壊されていて、『モノポリー』での交渉で友情が破綻することがあったり、『カウンター・ストライク』で愛する味方が庇ってくれないといって腹を立てるプレイヤが現れたりする。しかしながら、この種の問題は起きるべきではないというのが、ゲームプレイの理想ではあるようだ。はっきり取り決められた結末は、プレイヤが意識的に制御できる側面――物品の交換など――まで考慮するものであるらしい。しかし喜びや悲しみのように何気なく、そして制御しにくい反応は、水質テストのようにその都度試してみなければ分からないし、明確に意味づけるのが一般に難しい。
プロフェッショナルなスポーツに関しては、ひとつ特殊な問題がある。プロのスポーツ選手や競技者は、プレイしているというよりむしろ仕事をしているのだ、とRoger Cailloisはいう (p.6)。この説はただちに、いささかの直観的な違和感へと結びつく。マラソン大会のようなコンテストには、プロのスポーツ選手だけでなく「楽しいから走る」アマチュアも参加することがあるからだ。これを論理的に説明しようとすると、マラソン大会はゲームであると同時にゲームでないということになってしまう。次のような説明のほうが、しっくりくるだろう。すなわち、プロもやはりゲームをプレイしているのだが、大会という特定のゲームセッションでは、結末によって収入とキャリアが決定されるよう取り決められているのである。プロフェッショナルなスポーツはゲームか否か、という議論が生まれうるのは、私たちがゲームルールというものを、それが通常使われる文脈に結びつけて考えてしまうせいかもしれない。まともな実行結果が出るところを見たことがないものを、私たちはゲームとして考えない傾向がある。だから、株取引や選挙を律するルールがゲーム目的で使用できるとしても、誰もそれをゲームとは見なさないし、サッカーがプロフェッショナルにプレイされていても、そうではない環境でプレイされていることも知っているから、誰もがゲームと見なすのである。
以上のすべてはダイアグラム形式で、ふたつのサークルによって視覚化することができる。内側のサークル内にあるのは、六つの特徴すべてを備えたゲームとみなされるものであり、サークル外にあるのはボーダラインにあるものやゲーム風なものである。明らかにゲームでないものは外側のサークルからも外れる。
ボーダーラインケースから始めよう。紙とペンによるロールプレイングゲームは、人間のゲームマスターがともなうことでルールが臨機応変なものになるので、普通の意味でのゲームではない9。
『シムシティ』のような無期限シミュレーションは、ゴールが明確に定められていないために範疇から外れる。起こりうるゲームの結果にはっきりした評価が付加しない、とも言い換えられるが、それでもゲーム中の出来事はプレイヤと繋がっており、だからプレイヤは『シムシティ』のプレイに努力を傾けるのである。
一連のゲームから完全に外れるものを見ていこう。フリーフォームな遊びには、一切のルールがない。ハイパーテキスト・フィクションには、変化のないストーリを読み進めているだけではないのかという疑問が付きまとう。薔薇の花輪づくりのような構造化された遊びには、ルールこそ存在するものの、定まった結果がない。映画やストーリテリングには、たったひとつだけとはいえ、結果に評価が結びつく傾向がある。コンウェイのライフゲームの進展具合を観察するのは、暖炉の燃え具合を観察するのと同じであって、ルールおよび変化しうる結果をともなうシステムの観察としては合格だが、特定の結果に到達しても評価されることはない。プレイヤが結果と繋がっておらず、またプレイヤの努力も要求されない。
交通はほとんどの特徴をゲームと共有している。つまりルール (交通法規)、変化しうる結果 (目的地に無事到達するかしないか)、結果の評価 (安全に到達できるほうがよい)、プレイヤの努力、プレイヤと結果の繋がり (実際に到達したかしないか) が存在する。しかし交通の結末は任意ではない。交通における移動には常に現実世界の結末がともなう。同じことは、ジュネーブ協定遵守で行われるような貴族的戦争の概念にもいえる。
本稿で提唱するゲームの定義は、ゲームを特定のメディアや特定の遊具に縛るものではない。ましてメディア間を移動するゲームは、実際に数多く知られているのだ。カードゲームはコンピュータでもプレイされるし、スポーツはコンピュータゲームのジャンルとしても人気を確保している。ときにはコンピュータゲームがボードゲーム化されることもある。
このような移動がシステマチックな手法で調査されたことは、私の知る限りまだないので、次のようなストーリをめぐる議論からヒント拾ってみよう。物語性というのは、それだけ独立して目に見えるアン・ジッヒなものではなく、口伝や小説や映画といったメディアを通して、はじめて見えてくるものである。それでも物語性というものが存在すると分かるのは、あるメディアから他のメディアへと移し替えることができるからだ:
小説と映画の間で何かを行き来させることができるのは明らかだが、それと同時に、何もかもうまく均等に渡せるわけではないことも確かである。小説には内なる声や想いを創り出すという強みがあるが、運動の様子を伝えるのなら映画のほうが適している、といった具合に。
このやり方に従えば、似たような観点からゲームを眺めることができる。つまり唯一無二のゲームメディアであるといえるような単一のメディア10あるいは遊具セットは存在しないが、それでも確かにゲームというものはあり、カードゲーム、ボードゲーム、コンピュータゲーム、スポーツ、さらには心理ゲームにも、確かにそうと認識できる特徴を持たせている。これら全体を見渡してみると、すべてに共通する道具セットとか物質によるサポートは存在していないことが、非常にはっきりと分かる。共通するものはあるが、それは特定の種類の物質でないものによるサポートだ。すなわちルールの維持であり、どのような運動と行動を許し、どのような結果へと導くかという判定である。これは好都合にも演算処理という言葉で説明できるもので、現実には (ボードゲームやカードゲームでは) 人間によって、あるいはコンピュータによって、あるいは (スポーツでは) 物理法則によって提供される。
カードゲーム『ハート』をコンピュータに移動することができるのは、普通人間によって維持されるルールを、コンピュータが代わって維持し演算処理するからであり、またコンピュータがゲーム状況を記憶するメモリ容量を持ち、プレイヤの入力に応答するためのインターフェイスを持つからである。つまりボードゲームやカードゲームをコンピュータに適合できるようにしているものは、1) ゲームのルールに規定された普通は人間が実行するオペレーションを、2) 普通はカードや駒を使って行うゲーム状況の絶え間ない管理を、コンピュータが実行するという事実なのである。してみると私たちの手元にあるのは、それぞれに異なるやりかたでゲーミングをサポートする、ゲームメディアたちの生態系なのである。それはまた、困難に阻まれたり阻まれなかったりしながら異種のメディア間を移動するという、ゲームたちの生態系でもある。
もっとも広範囲に実践されたゲームと呼ぶに相応しいのは、チェスだろう。ボードゲームやコンピュータで利用できるだけでなく、目隠しでプレイされることまであるからだ。この場合プレイヤはゲーム状況を、絶えず頭の中で管理している。各個人の身体特徴がゲーム状況の一部になるという点で、スポーツにはいくらか特殊なところがある。これはつまり、ゲーム状況と外界のあいだに明確に区別されていないところがあり、ルールにも明確に規定できていないところがある (それゆえ審判が必要になる) ということである。11
ゲームのメディア間移動には、ものによって相違があることに注意してほしい。コンピュータ上のカードゲームは実装と見なされる。なぜなら、物理的カードゲームとそのコンピュータ版は、起こりうるゲーム状況すべてを、曖昧なところなく一対一で照らし合わせることができるからだ。コンピュータ上のスポーツゲームは脚色と説明されるべきものである。なぜなら、コンピュータプログラムは現実世界を単純化した物理モデルを使用するため、ルールやゲーム状況のレベルでかなりの詳細が失われることになるからだ。またプレイヤの身体がゲーム状況の一部ではないことから、インターフェイス面での欠落も大きくなる。サッカーをコンピュータに適合させるにあたっては、それゆえきわめて選択的な脚色が施される。
演算処理: ゲームメディアがルールを維持し、プレイヤの入力によって何が起きるかを決定する方法。
インターフェイス: ゲーム状況にプレイヤが及ぼす影響の詳細度。たとえば「はい・いいえ」で選ぶだけなら1ビットになるのに対し、プレイヤ自身がゲーム状況の一部となる競技スポーツでは、影響は計り知れないほど詳細になる。
演算処理とゲーム状況の区別は、ここで言及する一部ゲームメディアのあいだの差異を説明するために必要となる。演算処理とゲーム状況の区別は、専門用語でいえば、コンピュータの下層レベルにおけるCPU (演算処理) とRAM (メモリ) の区別に相当する。
ゲームは永遠に定義も把握もできないものである、と主張してきた著述家もいる。それでもゲームには確かになにかしら共通するものがあり、ゲームとそうでないものの境界は語ることのできるものであり、何千年にも及ぶゲームの歴史における最新の成果としてコンピュータゲームに注目するのは、道理に適ったことである。うまくそのように示唆できていることを願いたい。
本稿で提唱した定義は主に、プレイヤと現実世界が相互に作用する、真にルールに基づいたシステムとして、ゲームを説明している。これはよく知られているもうひとつのもの、つまり架空世界としてゲームを説明する定義とは、目立って異なるものである。これらふたつの観点の関わりは、現在行われているゲームについての議論のなかで、ゲームプレイヤにとってもゲームデザイナにとっても重要な位置を占めている。理論面からいうと、ゲームにおけるフィクションの問題は、両立しえないさまざまな方法で説明されてきた。Erving Goffmanは無関連のルールと呼ばれる原則を提唱している。これは駒がどのような形状をしていようと大した問題ではないとするもので、Crawfordの強調するゲームにおける安全性や、Cailloisの述べるごっこ性と対立する――どちらのケースも、ゲームの架空性やごっこ性といった側面を、重要なものとみなしているのである。ゲームにおけるルールとフィクションの関係は、それ自体きわめて大きなテーマではあるが、ここでは二者択一の問題ではないと述べておけば十分だ。
ゲームのルールについて議論していると、ゲームとは最初から矛盾を孕むものではないのか、という消しがたい感覚に襲われることがあるかもしれない。遊びというものは普通、制約のないフリーフォームな行動であるとみなされるわけだから、決定されたルールのともなうゲームをプレイすることによって、わざわざ自らの自由度に制約を課すというのは、理屈に合わない選択であるように思われる。自由でいられるのに制約されようとするのはなぜか? これに対する解答は、簡単にいうと、ゲームが行動に文脈を与えてくれるということだ。自分の化身を動かすという行為は、何にも支配されない空間でやるよりも、ゲーム環境でやったほうがはるかに有意義なものになる。ボールを投げるという行為は、道端でやるよりも、競技場でやったほうが面白さに深みが出る。突進攻撃はルールが攻撃方法を定めているときにだけ可能になる攻撃である。ゲームに勝利するためには、勝利条件が設定されていなければならない。チェスにルールがなければ、チェックメイトもエンドゲームも存在せず、シシリアンのオープニング定跡も存在しない。このようにゲームのルールとは、見込まれる運動と出来事に差異を用意することによって意義を高め、有効な行動を増やすものなのである。
コンピュータゲームの大半は古典的ゲームモデルの範疇に収まるものだが、古典的ゲームにまつわる多くの約束ごとに手直しを加えたうえで動作するものでもある。ふと気が付いてみれば、ゲームは変化してきている。ゲームにはかなりはっきりした形態があるという前提で話し合うことができている一方で、コンピュータゲームが古典的ゲームモデルに手直しを加えてもいるわけである。コンピュータゲームの歴史がかなりの長さになるということは、このようなゲームのスタンダードモデルを捨て去るということなのだ。
コンピュータゲームは他のゲームとまったく同じようにルールに基づいているものの、コンピュータこそがルールを維持するものになっている現状での古典的ゲームモデルは、コンピュータゲームに手直しされるものでもある。このことがコンピュータゲームの柔軟性を大いに向上させ、格段に複雑なルールを可能にしている。プレイヤはルール執行の必要から解放されているのだ。このことはまた、ルールを理解するところから始めなくてもプレイできるようなゲームを可能にしている。
変化しうる結果という概念は、『エバークエスト』のようなオンライン・ロールプレイングゲームでは手直しされる。このゲームではプレイヤが最終結果へと辿り着くことは永久になく、ゲームをログアウトするときにその時点での結果が残るだけである。
『シムズ』のような無期限シミュレーションは、ゴールを取り除くことによって、もっとはっきりいうなら、起こりうる結果のなかに他よりよいものがあることを説明しないことによって、古典的ゲームモデルを変化させている。
伝統的ゲームモデルでおそらく暗黙のうちに了解されているのは、ゲームの時間と空間が有界であるという事実である。つまりゲームには固有の継続期間と固有のロケーションがある、ということだ。しかし『マジェスティック』が「現実世界」を舞台にやってみせたように、ロケーションと密着したゲームや暗殺ゲームは、この概念を打ち破っている。
現在のコンピュータゲームでは半オフィシャルな隠しコマンドが日常茶飯事化しているが、これは多くの場合、ゲームの基本ルールにプレイヤがある程度手を加えても構わないことを意味している。ゲームは運動場化するクオリティも、砂場化するクオリティも確保しているわけだ。
なぜコンピュータとゲームには親和性があるのか? まず第一には、ゲームがメディア間移動可能な現象だからである。ゲームのプレイに必要な物質的サポート (映画でいえばスクリーンと映写機) は本当のところ非物質的なものだ。ゲームはある特定の物質的デバイスセットではなく、データの計算処理と結びついているのだから。第二には、コンピュータに処理できるものであるということが、ゲームルールの明確な特徴になっているからである。何千年にもわたってプレイされ編み出されてきたゲームが、現代のデジタルコンピュータにかくもぴったりフィットするものだったという発見は、人類の歴史のなかでもとりわけ奇妙なアイロニのひとつである。
六つの特徴は、ゲームなるものが成立するための必要かつ十分な条件となるものだ。つまりあらゆるゲームはこれら六つの特徴を有しているということであり、何かをゲームに仕立てるには、これらの特徴を持たせれば十分だということである。
これら特質のうち一部だけを共有する現象は、他にいくらでも想像できる。だがここで主張しているのは、この特定の共通集合には比類なき生産性があり、ゲームを通して経験する変化や創造性を、計り知れないほど大きなものにできるということである。
このゲームモデルはゲームを構築するうえでの土台となるものだ。映画にとってのフィルムに相当し、絵画にとってのキャンパスや、小説にとっての文字のようでもある。ゲームモデルが意味するものは、どんなゲームも同じものだということではなく、これら六つの特徴がゲームどうしを異なるものにしているということである。
最後に、コンピュータによってもたらされたゲームの革命は、人類文化に対するコンピュータの貢献のなかでもっとも強大なもののひとつである。私たちはゲームをプレイするのが好きなのであり、だからこそいまコンピュータゲームをプレイしているのだ。
私がコンピュータゲームという言葉で指すものは、コンピュータの処理能力を使ってプレイするゲームすべてである。つまりPCおよびMacintoshベースのゲーム、コンシューマゲーム、アーケードゲーム、携帯電話ゲーム…などだ。
[66.] 我々が「ゲーム」と呼ぶ一連の活動を例に考えてみよう。私が言いたいのは、ボードゲーム、カードゲーム、ボールゲーム、オリンピックゲームなどのことである。これらすべてに共通するものは何か? 「共通するものは当然ある。そうでなければ、全部が『ゲーム』と呼ばれることはない」などと言ってしまわないで、すべてに共通するものがあるかどうかをよく見てみよう。
賭博の対象になりうるかどうかは、ゲーム結果が数値化可能かどうかに左右される――賭けが成り立つのは、 結果が議論の余地なきものであるときだけである。
非プレイヤ (Non-Players): 世界の誰もがこのゲームをプレイしているわけではない。プレイに参加していない人々 (NP) には、睡眠や研究を妨げられたくない者がいる。おもちゃの銃が顔面に向けられるのは単純に嫌だという者もいる。[中略] NPは意図的にゲームに影響を及ぼすことはない。彼らがアイテムや情報を持つことはない。君の殺人を手伝うこともない。君の血を欲する獰猛な暴徒から隠れるのにNPの存在を盾にしてはならない。
ゲームはフォーマルなルールを持つというアイデアに対して、私はしばしば反論者に出くわしてきた。おそらくあまりにも構造主義的すぎるように思われるからだろう。しかしそこには差異がある。私が思うに、とりわけ構造主義者の物語学では、多くの誤った仮説が立てられてきた――本当のところストーリは、シンプルに基礎をなす深層構造を持っていたりはしない。あらゆるストーリ創作に通じる公式などないのだ。同じように、ゲーム創出のための公式も存在しない。しかしながらすべてのゲームは、ゲームセッションを創出するための公式ではある。チク・タク・ツーでも『クエイクIII』でもチェスでも、プレイできるゲームの手数は限られている。その数は『クエイク』やチェスでは、きわめて多くなるが。
これはチク・タク・ツーのルールにおける予期せぬ、つまり多分に二次的な結末である。チク・タク・ツーのルールはこのことを規定していない。これはゲームルールの結末なのだ。
フィギュアスケートのような審判判定スポーツでは、スケータの数値化可能な運動を数値化可能な結果へと変換するために、審査員という特別なレイヤーに信頼を置いている。(考察には1995年のSuitsを参照。)
私はメディアという用語を、表現の多様性をサポートする一連のテクノロジという、いくぶん非専門的な意味で使用している。ルールに基づくシステム全般の柔軟性ゆえに、ゲームは場合によってはメディアとしても説明されうるし、多くの異なるレベルからゲームメディアが説明されることもありうる。
ゲームを作成するためのツールキットやエンジン (『レンダーウェア』、『リステック』、『ハーフライフ』、『カウンターストライク』) はゲームメディアであり、そのうえに無数のサブメディアを組み立てるためのオプションを持つ。サブメディアにはそれぞれにアフォーダンスと制約がともなう。

 

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